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第115回「たしかめ」

 何気なしに本棚を眺め、ふと蔵書の1冊に目を留めます。それを手に取って気ままに頁をめくってみました。女優・沢村貞子(1908-1996)が著した『わたしの献立日記』(新潮社、昭和63年。中央公論新社、平成24年)を改めて読み直してみると、実に興味深く示唆に富んだ文章に触れることができます。先ず最初に「食と生活」について考えさせられました。金銭欲や権力欲は際限がないが、食欲には「ほど」というものがあり、自分の適量さえ摂取すれば十分満足、しあわせな気分になる……だけでなく、人に優しくできるようになるというのです。なるほど人間は自ら満ち足りていたら心にゆとりが生まれ、その分他者を思い遣ることができるようになるものです。また沢村は、彼女の父親の言い分としてこう続けます。美味い不味いは「喉先三寸」までの話で、飲み下してしまえば関係ない、だから食物なんぞで贅沢するな、といって戒める向きもあるが、たった「喉先三寸」の間でしか楽しめないからこそ美味いものを食べたくなる訳で、ただ目を瞑って飲み込んでお仕舞いでは何の生きている甲斐があろうか……。その上で沢村は考えるのです。「総グルメ時代」と言われる現代において本当に美味しいもの、「食物の本物」とは何かと問えば、限りある人生の中で限られた回数しか食事を口にすることができないのだから、「いま、食べたいと思うものを、自分に丁度いいだけ……つまり、寒いときは温かいもの、暑いときは冷たいものを、気どらず、構えず、ゆっくり、楽しみながら食べる」ところに得られるものであると答えられようし、「なんとも、月並みだけれど……どうやら、それが私たち昔人間にとって、最高のぜいたく」であろう、と。誠に正鵠を射た見方であると言えましょう。「さあ今日も、ささやかなおそうざいを一生懸命こしらえましょう」。「料理」と構えず「おそうざい」というところなどに、知的で庶民派の江戸っ子・沢村の人となりが滲み出ているようです。
 沢村の家の食事は朝夕2回、昼はおやつ程度。その朝晩の献立について、沢村は日記を付けていました。「粗末な大学ノートを、古い民芸カレンダーでくるむ」お洒落ごころの利いた「献立日記」帳です。昭和41年4月分から毎日毎日朝晩の献立を記し、献立備忘録としました。そうすれば毎日の献立に変化をつけることができるし、第一以前の献立を思い出す手間が省けるのでしょう。無地の大学ノートの頁を横4段に仕切って、日付と献立をひたすら書き記していくことは一見単純作業のようですが、この記録の累積は次第に大きな意味を持つようになっていきます。「献立に大切なのは、とり合わせではないかしら。今日は魚が食べたい、とか、肉にしよう……などと主役は早く決まっても、それを生かすのは、まわりの脇役である。好きなものばかり、と言っても、ひらめのお刺身に麻婆どうふ、グリーンピースのポタージュなどを添えられては、味蕾がとまどって喉につかえる。和風、洋風、中華風……そのときどきの素人なりの工夫を、この日記は気軽に思い出させてくれる。1年1年、齢とともに好みはすこしずつ変ってゆくが、とにかく、これは私にとって、料理用虎の巻ということになっている」。「名脇役」沢村ならではの正直な気持ちが表れています。
 通算して36冊になる「献立日記」。毎日の備忘録とは言え、よくもこれだけコツコツと記し続けてきたものだと感嘆の声を上げたくなります。私の誕生日の献立を探すと、「まぐろのお刺身、茶碗むし、豆腐の味噌汁」や「松葉がにの三杯酢、こうや豆腐、椎茸・かまぼこ・あわびのうす味煮、春菊の味噌汁」などが登場し、かなりバラエティに富んでいます。料理の種類、食材の特徴、季節感、皆の好き嫌いや健康状態等々を考えながら、ノートの頁を繰って、今日の献立に思案を巡らせていたのでしょう。美的センスというか洒落っ気というか、味覚だけでなく視覚にも訴える工夫を凝らしていたはずです。しかし、それは特段気取ったことでも、肩の凝るようなことでもなく、ごく自然の感覚のうちに為された営みであったように思われます。その営みの結果を今日もまた文字にして残す……。この「献立日記」は食を通した人生日録であり、人間の「生」の「生々しい」記録であると考えます。
 毎日の献立を日記に付けることも、それに先立って献立を考えることも、勿論、実際に食事を作ることも、いずれも大変な作業で、まさしく「言うは易く、行うは難し」の典型例です。食事を作るにも、必要な食材を購入し、調理し、配膳し、後片付けし……を毎日繰り返す訳ですから、その役割を分担する人には頭が下がります。何も別に必ず特定の人が分担しなければならないことではなく、特定の性別が担うべきと決まったことでもありません。ひとりで担うのか複数で担うのかも場合によって異なるでしょう。役割の固定はないものの、学生時代の自炊も長続きせず、限りなく調理能力ゼロに近い我が身からすれば、妻より他に頼りはなく、その意味で、家族の我儘にも耳を貸し、手を変え品を変え手際よく食事を作ってくれる妻には只々感謝するのみなのです。そのくせ今日の食事の希望を聞かれた時に、「何でもいい」などと答え、料理する気を削いでしまうようなこともしばしばなのですが、それは自分が食べたいものを考えてもどうにも思い浮かばないからと言うよりも、面倒臭がり屋の思考停止に起因することは明々白々たるところで、何ともお詫びの仕様もありません。沢村の本を読み進めると、一層その思いが強くなっていくばかりです。
 かく読み進めていくと、「献立ひとくちメモ」というコラムがいくつかあり、その中に「たしかめる」と題された一文がありました。「夜、夕飯のあと片づけが済み、台所から引き上げるとき……私は右手の人さし指をあげて、端からたしかめる。台所口の鍵はかけたか?ガス水道の栓はしめたか?食器棚の戸はあいていないか?……最後に電話を居間に切りかえ、電気を消して、おしまい。人間は横着なのか、頭で考えただけではポカをする。電車の運転手さんのひとり言『発車、進行』の真似をした訳だが……この頃、身についた」。まさにこれは「指差呼称」に他なりません。産業や組織によっては「指差称呼」とか「指差喚呼」などと称しています。厚生労働省の説明資料によれば、この「指差呼称」は、KY(危険予知)活動の一環として行われるもので、作業の対象・環境・条件や標識・信号・計器類に指を差し、その差した先の名称と状態を声に出して確認することであると説明されています。また、人間の意識レベルを5段階に分類した「フェーズ理論」では、「指差呼称」により意識レベルが「フェーズⅢ」に上がり、緊張感や集中力が向上するとされます。事実、広島大学の研究論文においては、「指差呼称」で前頭葉における血中酸素化ヘモグロビン変化量の増加が認められ、結果として認知機能の活性化が図られることになり、確認・観察作業上の怠慢や誤判断が回避される可能性が高まると論じられているのです。言うまでもなく、「指差呼称」だけで総ての事故やミスが防げる訳ではありませんが、それが人為的過誤・失敗の頻度を減じさせるに有効な手段であることだけは確かなのでしょう。
 この「指差呼称」は、沢村の言うとおり、元々は国鉄の運転士が信号確認のためにおこなっていた安全活動でした。それが今では様々な産業に取り入れられ、我が建設業界においても、作業前確認の一手法として実践されているのはご存知でしょう。その実践にも「作法」があって、上述の厚生労働省の資料を参考にまとめてみると、①対象をしっかりと見る。②対象を指で差し、その名称を声に出して言う。③差した指を耳元に戻し、その対象の状態が本当に良いかを確かめる。④良いことが確認できたら、「ヨシ!」と発声し、再び対象に指を差す。①から④の動作においては、指差しする手と反対側の手を腰に当て、背筋を伸ばし、明瞭で大きな声を発して、キビキビと行動することが推奨されています。また呼称する内容については、できるだけ具体性を持たせた方がよいようです。例えば「安全帯ヨシ!」よりも「安全帯適正着用ヨシ!」の方が注意力は高まるということです。こうして「指差呼称」を職場の仲間全員で実施する、つまり「唱和」すれば、より多くの人に効果は波及し、仲間の一体感や連帯意識も強まることでしょう。そうなれば、職場を同じくする者同士の相互注意や相互配慮も生まれやすくなり、ひとりの目では見逃してしまったかもしれない「リスクの芽」を複数人の目で捕捉することができるようになるはずです。
 仕事だけではなく、どのようなことに取りかかるにしても、何も考えず、何の準備もせず、言わば「出たとこ勝負」で、いきなり着手することほど危険なことはありません。どれだけ焦っていても、またこれまでどれだけその行動を繰り返してきた経験があるにしても、その逆に全く経験がないとしたら尚更、事前の準備が必要です。準備と言っても道具の準備だけでなく、状況や条件の把握と心構えまで含みます。「指差呼称」も大切な準備のひとつです。「指差呼称」が実行できるには、強い安全意識に裏付けられた動機づけと、準備に要する時間が不可欠となります。だからこそ、物事に取り組むに当たっては、一呼吸入れられるだけの心と時間のゆとりが大切なのです。ほんのささやかなゆとりが大きな損失を防ぐことができるとすれば、それを決して軽視したり忘却したりしてはならないはずです。「指差呼称」において対象を指す指先を通じて、対象物の安全と自己の心身の安全とが直結し、リスク軽減・事故防止・損失低減を可能にするひとつの「力場(force field)」が生み出されていると言っても決して大袈裟な言いかたではないと思いますが、さてどうでしょうか。
 ごちそうを受ける巡り合わせに恵まれることを「口果報」とか「口運がいい」とか言うようですけれども、そのごちそうも下ごしらえがあって初めて作られ、提供されます。料理も仕事も何事も、素晴らしい巡り会いには運が関係するとしても、運が成立する背景には、一手間、一工夫、一呼吸があり、従ってそこには信念と誠意と愛情をもって取り組む数多の人々が存在することに改めて思いを致さなければなりません。笑顔と幸運をもたらす行いや振る舞いこそ、最も気高い営みのひとつであるに違いないでしょう。派手さとは無縁であっても尊い生きざま……それは沢村が紡ぐ言葉の端々から感じられるはずです。
 さて、新しい年が始まりました。今年令和8年の干支は「丙午(ひのえうま)」です。これまで数々の迷信が伝えられてきた干支ですが、それが本来意味するところは、熱く燃えるほどに情熱的で、活き活きと力強く行動できる年になるということなのです。
 但し、もうおわかりのように、かく行動するためには、今現在の自分の立ち位置を知る必要があります。つまり準備、自らの内と外のコンディションの確認です。自身の健康や知識技量だけでなく、手元・足元・前後・頭上をチェックし、他者を含めた周辺環境をしっかりと見極めなければなりません。単なる「勢い」で安直に猪突猛進するのは愚の骨頂です。
 当社はいよいよ今年の4月で創業百周年を迎えます。しかしながら、創業何周年であっても同じこと、現状を知り、よく考え、自ら腹落ちすることが前提となります。多事多端な日々は続きますが、変わらぬ基本を忘れずに、一手間を惜しまず、じっくり念入りに仕事に取り組み、次なる一里塚を目指して邁進していきましょう。
 本年もよろしくお願いいたします。ご安全に。

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