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第120回「有松を歩く」
東京・日本橋。その車道のど真ん中に「日本国道路元票」という金属プレートが埋め込まれています。こここそが7つの幹線国道の起点です。我々に馴染みがあるのは国道1号線で、これは日本橋を起点として神奈川、静岡、愛知、三重、滋賀、京都を経由、大阪・梅田街道を終点とします。江戸時代における五街道のひとつ東海道(江戸-京都間)と京街道(京都-大坂間)のルートに重なりますが、現在では全く同一ということはなく、エリアによっては往時のルートとは異なっています。何であれ、この令和の御世になっても、「東京から〇㎞」と言えば日本橋が起点、「東京まで〇㎞」と言えば日本橋が終点であることに変わりなく、その意味でも「道」を巡る歴史は今に脈々と受け継がれていることがわかります。
明治期の文明開化以来、人々は「便利なもの」を加速度的に発明し、それを日常生活へと取り入れてきました。移動手段に限って見ても、機関車、自動車、航空機などなど、移動時間短縮と快適性向上の両方を満たす優れた「乗り物」が続々と登場し、しかも現在進行形で新技術が開発され、実際に応用されつつあります。これから先、我々が想像できないような奇抜で驚くべき移動手段が出現しても不思議ではありません。しかしながら、当然のこと、江戸時代までの移動手段は徒歩、駕籠(これもある意味徒歩)、牛馬、はたまた帆任せ風任せの船だったのです。例えば東海道で言えば、基本は歩きで行くものでした。一部区間は船で移動しましたが、それでも江戸から京都まで約半月ほどかかりました。飛脚リレーでも約4日かかったと言います。何日も時間をかけ、何カ所かの旅籠(旅館)に宿泊し、どうにかこうにかゴールまで辿り着くという、気の遠くなるような一大旅行だったのです。
東海道といえば「東海道五十三次」という言葉があります。江戸・日本橋と京・三条大橋とを結ぶ東海道には53カ所の宿場町があったことに由来します。(最近では大坂までの4宿を加えて「五十七次」と称するケースもあるようです。)53カ所の宿場町には数千軒の旅籠があったとされ、それぞれに賑わいを見せていました。旅行く者だけでなく、伝達・運送に携わる者にとっても不可欠な拠点・中継基地だったからです。道中には山あり谷あり、川あり海あり、名物あり。変化する風光、多様な風俗、多彩な文物……その旅程に遭遇した出来事を面白おかしく描いた珍道中記として有名なのが十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』、あの「弥次さん喜多さん」デコボココンビによる「徒歩旅行記」です。江戸を出発して伊勢参り、のち京・大坂へと向かう旅は、おふざけ・失敗・大騒動の連続で、読者を旅の疑似体験に誘いながら笑い楽しませてくれるという筋立てになっています。続編も書かれていますが、作者の一九は一時江戸の版元・蔦屋重三郎の元に身を寄せていました。一九と同じく戯作者で、当時蔦屋の手代を務めていた曲亭馬琴(読本『南総里見八犬伝』で有名。)が著した『近世物之本江戸作者部類』によると、一九はひどい酒好きで、生涯言行を慎まず、軽率な俗物であったし、多作の割に当たり作はなかったのだが、『東海道中膝栗毛』だけは世間の評判がよかった、とされています。何とも「個性的」で破天荒な戯作者だったのでしょう。ともかくも、誰もが簡単には伊勢や京・大坂へ出かけることなんぞ出来なかった時代の読者達を虜にし、その想像力に強く訴えかけてくる魅力に溢れた作品を、この「浮薄の浮世人」は残してくれました。(出版は蔦屋耕書堂からではなく、村田屋栄邑堂からでした。)
「東海道五十三次」で忘れてはならないのが、歌川広重による一連の浮世絵版画です。起点と終点の2枚を含む全55枚の作品では、宿場ごとの景色、人物、名所などがモチーフとして描かれていますが、広重は何パターンもの「五十三次」浮世絵を制作しており、それぞれに絵柄は異なっています。最も知られているのが「保永堂版」のもので、以前「永谷園のお茶漬け海苔」に「五十三次カード」として封入されていたものがその絵柄に当たります。この愛知県内の宿場町には、二川、吉田、御油、赤坂、藤川、岡崎、池鯉鮒(知立)、鳴海、宮があり、そこより西へは「七里の渡し」から海路にて三重の桑名へと向かいます。絵の題材としては、例えば岡崎は「矢矧之橋」、池鯉鮒は「首夏馬市」、鳴海は「名物有松絞」、宮は「熱田神事」の風景が描かれています。ここで素朴な疑問が湧いてきます。有松は知立と鳴海の中間地点に位置するはずです。とすると「名物有松絞なのに何故『鳴海』なのか?」、「広重の『鳴海』に描かれているのはまさしく有松の風景そのものではないのか?」。これはどうやら「有松」と「有松絞り」についてもう少し話を進めていく必要がありそうです。
大都市の中にあって江戸の風情を静穏のうちに残す有松。独特な技法によって生み出される多種多様な模様と木綿の優しい肌触りが魅力の伝統工芸品・有松絞り。名古屋市が発行するリーフレットにはそれらについて簡潔な説明がなされています。上述のとおり、有松は、江戸時代の慶長年間に池鯉鮒宿と鳴海宿の間の地域に尾張藩によって募集された入植者が住み始めたことによって開かれました。宿場間の防犯目的もありましたが、「町興し」と「産業振興」のためでもありました。従って有松は宿場町ではなく産業の町であった訳で、ここで言う産業とは、言うまでもなく有松絞りの生産・販売でした。九州の豊後絞りを参考にして、知多木綿などに絞り染めした手拭いを製造したのが始まりです。尾張藩は有松絞りの生産を奨励しましたが、生産エリアは有松地区に限定され、他地区での生産を許しませんでした。その代わり、有松においては間口税(家の間口の広さに応じて課される税)を免除し、その他の諸税も減免しました。どうりで間口の広い豪壮な商家が建ち並んでいる訳です。作られた有松絞りは、有松を往来する人々が買ったり、近隣の宿場町で売られたりしていました。のちに有松絞りの評判が上がり、下請けを含む生産者達も増えてきたため、有松村に運上金(定率納付金)を納めた鳴海村などでも「絞り屋」が多く見られるようになってきたようです。こうして有松と鳴海のエリア一帯にて有松絞りは生産・販売されるようになり、「有松・鳴海絞り」という言い方もされるようになったくらいなので、有松が宿場町ではないこともありますが、広重の「鳴海」において有松の絞り屋の風景が題材として採用され、「名物有松絞り」と記されたとしても、それは違和感のない、ごく自然のことだったのかもしれません。「くくる」「ぬう」「たたむ」の手作業を経て染色される技法は、まさに職人の腕に左右されます。その腕によって色鮮やかに出現した模様と生地の凹凸感は、個性溢れる伝統工芸品が有する魅力の真髄と言えましょう。先程の『東海道中膝栗毛』では、弥次さん喜多さんが有松の絞り屋に半分冷やかしのつもりで立ち寄り、店主と珍妙な問答を繰り広げる場面が登場します。やはり名物は誰にとっても手にしてみたくなるものなのでしょうか。「ほしいもの 有まつ染めよ 人の身の あぶらしぼりし 金にかへても」(欲しいものが「有り」。それは有松絞りで、人の身の油を「絞って」得た金に代えても買いたいものだ)。
東海道を歩き、有松の町を眺めると、絞り屋の建物が並び、しかもその大半は今でも実際に住まいとして使われていると言います。間口の広い、重厚な佇まいの見事な商家です。木造2階建、切妻屋根・平入り。桟瓦葺の屋根は街道に沿って延び、格子窓や虫籠窓にはいかにも商家らしい意匠が凝らされ、防災目的の卯建は絞り屋の繁栄と勢威の象徴でもあります。2階建と言っても2階は「厨子(つし)二階」で、天井高は1階より低く抑えられています。さらに外壁と軒裏に塗られた漆喰の色味に時代を感じる塗籠造は圧巻。室内に入り、見上げてみれば、立派な小屋組や天窓、吹き抜けなどが確認できます。敷地内には店の主屋、離れ、茶室、土蔵等が配置され、それらに囲まれるようにして庭が作られており、まさに有松絞りがもたらした「豪商の屋敷」そのものです。広重が描いたのは、東海道を西に向かって見た時の左手側に現在も建つ岡家住宅など数棟の有松絞り問屋だったのでしょう。令和の今、そうした有松の町並み保存地区を歩くだけで、我々は瞬時に江戸時代へタイムスリップできるのです。有松という時代を超越した空間が身近にあることを幸運に思います。
江戸時代だけでなく、それぞれの時代を象徴する道、建物、風俗、またはそれらの面影らしきものは、存外ごく身近なところに息づいているものです。ただそれに気づかない、気を向けていない、関心を寄せていないだけなのです。自らがアンテナを張って受信機のスイッチをオンにしておかなければ、往時の風情や文化の姿かたちを今に伝える貴重な財産に全く気づくことなく素通りして見逃してしまうでしょうし、集団的に同じ見逃しが繰り返されれば、それらの財産は知らぬ間に消滅していってしまうことになるのでしょう。何よりこうした財産の存在、さらにその意味や価値を知るためには、歴史に関心を持ち、歴史から学ぶという姿勢が不可欠です。大きな時間の流れの中で、その財産がどれだけの価値を持っているのか、何故それが生まれ今に残っているのか……好奇心を持続して歴史と向き合う意欲さえ持っていれば、それらの問いは次から次へと続くはずでしょうし、我々を取り巻く文化のうちに微妙な色合いの違いや微かな香りの移ろいを敏感に感じ取ることができるようになるでしょう。そこにまで至れば、濃淡はともかく、感受できる対象も限りなく広がっていくはずで、その広がりの過程で気づくのは、人間の営みすべてに何らかの意味や価値が宿っているということに他なりません。普段はくだらなくて取るに足りないと看過されるような事物でも、それが何あろう人間の行為や振る舞いに起因して生じた成果物である以上、その大小、強弱、軽重、貴賤、賢愚、優劣を問わず、意味や価値があるということです。これを知る時、人間は人間として安心し、時に感激を覚えます。心が震えるという体験、穏やかな心境のうちに生じる衡平な感覚。有限の生にあって大河で浮き身する我々は、手元や足元に存在するであろう「何ものか」に気づき、その純粋な輝きに心から感動し、同時に感謝しなければならないのでしょう。
東海道の有松という奇跡に触れつつ歩を進めていくと、過去であって現代でもある不思議な空間に自分が置かれていると言うよりも、実は何気ない素朴な日常そのものに心身が溶け込んでいると言ったほうが余程ふさわしいのではないかという思いに駆られます。静かに呼吸して有松の空気を体内に行き渡らせると、一層その思いは強くなるのでした。
さて、第74期も終了を迎えます。今期も各人それぞれが沢山の光輝と香気に満ち溢れた「何ものか」に出会えたことでしょうし、来期もそうした「何ものか」が数多く我々を待ち受けていることでしょう。ただし、偶然の遭遇ばかりを当てにしていてはなりません。日々感度全開にして目を凝らし、耳を澄まし、心を優しく穏やかに保って、平生ならば気づけなかったであろう「何ものか」をこちらから見出すことが大切になります。そのようにして見出せれば、歓喜と感謝の心持ちはさらに強くなるはずです。
ともあれ、先ずは今期1年間ご苦労さまでした。引き続き基本を大切に、オーソドックスかつプロフェッショナルな仕事の仕方を追求していきましょう。来期もワクワクするような1年であることを祈って。ご安全に。
当社会長を務めた岩部一好(1939-2016)は、社員とその家族に向けて毎月の給与明細にメッセージを添えていました。
そのメッセージは、作家・城山三郎先生に序文をいただいて『雄気-築きあげたものたち-』(平成16年4月発行)と題された本にまとめられました。その後もメッセージは書き続けられ、2冊目の本『雄気-大切なこと-』(平成22年4月発行)が上梓されました。さらにメッセージは続き、本人が亡くなる直前の平成28年5月分が絶筆となりました。2冊目の本に掲載された分より後のメッセージは、3冊目の本『雄気-完結編-』(令和8年4月発行)に収録されました。
中堅企業に成長することを夢見て、目標に向かって一体となり、自ら物を考え、そして、悩み、行動する真の大人集団となる努力こそがすべてだ……これがメッセージを貫く基本的な考え方だったのです。
全292回。『雄気』の思いは、今もひとりひとりの心に、また活字に姿を変えて生き続けています。
※なお、1冊目の『雄気-築きあげたものたち-』と2冊目の『雄気-大切なこと-』は在庫切れとなっておりますが、3冊目の『雄気-完結編-』につきましては若干の在庫がございます。ご希望の方は当社までお問い合わせください。