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第106回「邂逅」
伊勢国は松坂(現在の三重県松阪市)出身の本居宣長は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した国学者で、『古事記』や『源氏物語』の研究で偉業を成し遂げた人物です。国学者とは、まさしく国学を研究する学者のことですが、その国学とは何ぞやと言えば、宣長さん自身によると、神学(神道や神社など、日本の神々への信仰を研究する学問)、有職(ゆうそく)学(日本古来の官職、儀式、法制度、慣習・作法、装束、調度等を研究する学問)、歴史学(『日本書紀』を始めとする「六国史[りっこくし]」や後世の歴史書などにより日本史を研究する学問)、歌学(優れた和歌を詠むために、歌集や物語など日本古典文学を研究する学問。また、言語・文法を研究する学問)から構成される学問ということになります。ただし、宣長さん自身は「国学」とか「和学」といった言い方を嫌います。何故といって、彼にとって学問とは皇朝(本朝、つまり日本)の学問に他ならず、それと区別するために、例えば漢(中国)の学問については漢学と言うのであって、皇朝の学問をわざわざ「国学」やら「和学」やらと表現する必要はなく、ただ「学問」とだけ言えばよい、という考え方に立つからです。とは言え、ここでは便宜上「国学」という言葉を使わせていただき、大雑把にそれを「日本の古典を通じて、仏教や儒教が渡来・浸透する前の日本人固有の心持ちや文化を探究する学問」と定義して話を進めていきたいと思います。
その宣長さんに『雅要録』という記録があります。そこには、来訪者、手紙のやり取り、書籍の貸し借り、出版用下書や校正刷の授受などが日付順に記されています。さらにこの『雅要録』の紙背(裏面)には、『雅事要案』という記録が残されています。内容的には『雅要録』とほぼ同様で、それ以降の出来事について記されているものです。その『雅事要案』には次のような記事が見られます。「同廿五日來ル。一、江戸通油町蔦ヤ重三郎 來ル。右ハ千蔭春海ナトコンイノ書林也」。短い文章ですが、少し説明を加えながら訳すとこうなりましょうか。「寛政7年(1795年)3月25日の来客。江戸の通油町(とおりあぶらちょう。現在の東京都中央区日本橋大伝馬町)で書肆(しょし。書籍の出版兼販売業者)耕書堂を営む蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう。略称「蔦重」。本名は喜多川柯理[きたがわ からまる])がやって来た。この人物は加藤千蔭(かとう ちかげ)や村田春海(むらた はるみ)などが親しく付き合っている本屋である」。寛政7年というと、蔦重が47歳で亡くなる2年前、宣長さんが71歳で亡くなる6年前のことになります。ちなみに加藤千蔭も村田春海も、宣長さんと同じく、かの『万葉集』研究の大家・国学者の賀茂真淵(かもの まぶち)の弟子(真淵の学派を「縣居[あがたい]門」という)で、両名とも江戸における縣居門の柱石として活躍します。では何故蔦重は千蔭や春海と懇意になったのか、またどうして松坂の宣長さんのもとを訪れたのか、言い換えれば、宣長さんと蔦重の出会いにはどういう意味があるのか……。この問いに答えるためには、今更「釈迦に説法」ながら、蔦重の生涯について少しだけ振り返ってみる必要がありそうです。
蔦重は、江戸の遊郭街・新吉原に生まれ、当初その大門口で細見屋(吉原の「案内書」を売る店)を営んでいました。のち地本問屋(じほんどいや)の株を取得して日本橋通油町へ店を移転します。地本問屋とは、地本、つまり草双紙(くさぞうし)と呼ばれる本や浮世絵などを出版・販売する店のことです。草双紙は、赤本・黒本・青本、黄表紙や合巻(ごうかん)などに分類され、赤本・黒本・青本は子供向け絵本や大人向け通俗小説で、表紙の色からそう呼ばれていました。黄表紙はさらに大人向けで、しっかりとした形式や内容が備わり、世相・世俗が描写された絵入り小説です。恋川春町(こいかわ はるまち)、山東京伝(さんとう きょうでん)、朋誠堂喜三二(ほうせいどう きさんじ)等が文章を、北尾政美(きたお まさよし)、歌川豊国(うたがわ とよくに)、喜多川歌麿(きたがわ うたまろ)、葛飾北斎(かつしか ほくさい)などが挿絵を担当しました。また合巻は、それを数冊合冊して編集されたものです。それら以外にも、遊里での町人の享楽を「通・粋・うがち」の観点から会話文で表現した洒落本(しゃれぼん)、江戸気質を賞賛し野暮を馬鹿にする会話体の滑稽本(こっけいぼん)、伝奇的で勧善懲悪の小説・読本(よみほん)などがありますが、いずれも仮名で書かれて挿絵も豊富な庶民の読み物だったのです。地本問屋の蔦重は、数多くの作家や絵師とのネットワークを駆使してヒット作を生み、商売に大成功することになります。しかしながら、庶民の享楽は規律喪失と退廃衰滅を招く……と捉えられたのか、第10代将軍徳川家治の死去に伴い老中・田沼意次(たぬま おきつぐ)は失脚、続いて質素倹約・思想統制を強く押し出す松平定信(まつだいら さだのぶ)が老中に就任して改革を断行することにより(寛政の改革)、蔦重たち出版業界は大打撃を受けることになります。幕政を批判したり、風紀を乱したりしていると判断された本は発禁処分となり、作家自身も江戸追放、罰金刑、手鎖の刑などに処せられました。蔦重は財産の半分を没収されたのです。
こうした状況下で地本の出版を続けていくのは相当困難なことです。蔦重は東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)の浮世絵(役者絵、相撲絵等)を出版して評判を博したものの、本の出版ということで言えば、やはり別のジャンルの本に注力するしかありませんでした。別のジャンルの本とは、もっと「堅い内容の本」、つまり学術書です。医学書、歴史書、古典文学書、仏教書、漢籍、儒学書、それに当時学問として完成され、評判の高かった国学に関する書籍……。これら「堅い内容の本」を取り扱うのは地本問屋ではなく書物問屋でした。これがため蔦重は書物問屋株を取得、当然のこと江戸縣居門との接触も重なります。それだけに止まらず、さらに全国的に高名な学者の著作が耕書堂の店頭に並ぶとすれば、販路拡大、売上増大ということに加え、店の「格」自体も数段上がるというものです。問屋仲間らと日光方面へ出かけた以外は江戸を離れたことのない蔦重が、遠く伊勢の松坂まで出かけて宣長さんに会いに行き、何としてでも著作を出版・販売する権利を許諾してほしかった……蔦重の商売に懸ける情熱、執念、覚悟の凄まじさがひしひしと伝わってくるようです。
当時、『古事記伝』を始めとする宣長さんの著作は、名古屋の本町にある書肆・永楽屋東四郎(えいらくや とうしろう)によって出版されていました。名古屋の有力版元です。江戸で流行している本を販売したり、逆に名古屋の本を江戸で売ったりすることもあったので、同業者・蔦重との交流は勿論あったでしょうし、宣長さんの著作を販売するにあたっては永楽屋の理解と協力が不可欠だったことでしょう。結果として、同門学友の千蔭・春海の口添えのおかげか、永楽屋の助言のおかげか、はたまた蔦重の知名度と営業力のおかげか、宣長さんの了解のもと、『手枕(たまくら)』(『源氏物語』を題材にした宣長さんの創作小説)、『玉勝間(たまがつま)』(諸分野1,005項目から成る考察・随想集)、『出雲国造神寿後釈(いずものくにのみやつこかむよごとごしゃく)』(出雲の国造が就任1年後に帝に奏上する「出雲の神々からの祝詞」に関する真淵説を受けての自論詳説)が念願かなって販売されるに至りました。しかし翌年、蔦重は脚気を患い、さらに次の年に亡くなりました。当代一の出版人は、その死の直前に当代一の国学者に巡り会えたのでした。読本『南総里見八犬伝』で有名な曲亭馬琴は『近世物之本江戸作者部類』の中で蔦重のことを「風雅の道もわからず文才もないが、世渡りの才能は他人より優れているので、世の中の才人達に引き立てられ、それにより出版する本はどれも当時の流行に適合していたため、十余年のうちに立身出世して、一、二を争う地本問屋になった。『世の中には吉原で遊んで破産してしまう者は多いが、吉原から出て豪商になったような者はそうはいない』と誰もが言った」と評しています。
ひとつの大きな才能が、もうひとつの大きな才能と運命的に出会った……。「邂逅(かいこう)」という言葉があります。思いがけず偶然ではあるが実に運命的な出会いを意味します。宣長さんと師・真淵との出会い、それに蔦重との出会いもそう言えるのかもしれません。もっと言えば、時代を問わず、また洋の東西を問わず、あらゆる人にとってそれぞれの邂逅があるのでしょう。自分以外の他者との出会いは、殊更企んだものでない限りは、いずれも邂逅と考えてよいと思われます。配偶者との出会い(あるいは子供との出会いも)、師友との出会い、仕事上の関係者との出会い、街の人との出会い等々、あらゆる人との出会いは、ある意味邂逅です。それらの出会いは、一見すると必然的なもののように見えても、その実、数限りない条件が重なって満たされなければ果たせなかった出会いである以上、さらにまた相手方も同じだけの条件の重なり合いや充足を経て当方の目前に現れているのだとすれば、まさしく無限に等しい条件の掛け合わせと、その見事なまでに完璧なる満足の結果得られる出会いであるに違いありません。ここまで来ると、こうした出会いは偶然、と言うよりも奇跡的な遭遇と考えてもよいのではないでしょうか。
人との出会いだけでなく、様々な事象や事物との遭遇すべてが、全宇宙に存在する星の数以上ある諸条件の極めて複雑な交錯(一致、交わり)によって成り立っています。そうしてみると、今、この立場や環境にあって、何事かをしながら、あるいはまた何らかの感情を抱き、思考を続けながら生きているということ自体が、その時現在までの邂逅の集積、総和のなせる業(わざ)であるとすら考えざるを得ません。何故自分は今ここにいるのか、何故自分は今何事かを考え、為しているのか……問えば問うほど邂逅という言葉の概念、無限大の不可思議さをたたえる深遠な意味内容の世界に、ぐいぐいと引き込まれていくような感覚を覚えて止まないのです。
宣長さんも蔦重も、思うに、そうした感覚を無意識的に抱き、歴史上の運命的な出会いの意義を瞬間的に覚知していたのではないかと考えたとしても、それは妄想だと一蹴されることはないでしょう。妄想どころか現実、そう捉える方のが余程素直な見方、正直な姿勢ではありませんか。飽くまでも私の考えでは、です。
さて、当期第73期の第4四半期もあと2ヵ月を残すのみとなりました。当期中に仕上げておくべき仕事、当期のうちに一定の段階まで進めておくべき仕事、いずれにおいても、この2ヵ月間はとても重要で、決して疎かにはできない時間となります。何より基本に忠実に、スケジュール感を持って日々の職務に当たらなければなりません。慌てず、焦らず、着実に仕事をこなし、しかも油断せずに推進力を維持して完遂する……そのためには必然、多くの人々の協力が不可欠となります。発注者、専門工事業者、設計・コンサルタント、地域の皆様等々、実に沢山の人々との「つながり」の結果得られる協力です。
この「つながり」はまた、無数の邂逅を端緒として育まれるものです。すべての邂逅に感謝し、それを何より大切にして、ひとつひとつの仕事に臨んでいきましょう。あらゆる巡り会いの果てにあっても、安全最重視にて。ご安全に。
当社会長 岩部 一好(1939-2016)は、社員とその家族に向けて毎月の給与明細にメッセージを添えていました。
そのメッセージは、作家・城山三郎先生に序文をいただき『雄気』と題された2冊の本にまとめられました。
2冊目の『雄気(続編)-大切なこと-』(平成22年4月発行)の巻頭では、中堅企業に成長することを夢見て、目標に向かって一体となり、自ら物を考え、そして、悩み、行動する真の大人集団となる努力こそがすべてだというメッセージを綴っています。
なお、社員とその家族へのメッセージは、本人が亡くなる直前の平成28年5月分まで書き続けられました。
- 2016年05月
- 第290回 非合理の合理精神
- 2016年04月
- 第289回 血騒ぐ若人の季節
- 2016年03月
- 第288回 ユーモアと老人
- 2016年02月
- 第287回 坂の上の雲
- 2016年01月
- 第286回 May I help You?
- 2015年12月
- 第285回 謙虚こそ力
- 2015年11月
- 第284回 すばらしきかな日本
- 2015年10月
- 第283回 責任をとる
- 2015年09月
- 第282回 お陰さま
- 2015年08月
- 第281回 企業に肉をつける
- 2015年07月
- 第280回 ビールにありがとう
- 2015年06月
- 第279回 合理的な自然の知恵
- 2015年05月
- 第278回 花と古里
- 2015年04月
- 第277回 これほんと。地震と諺
- 2015年03月
- 第276回 和風建築のすばらしさ
- 2015年02月
- 第275回 すごい会社があるもんだ
- 2015年01月
- 第274回 公孫樹の魔力
- 2014年12月
- 第273回 耐震技術の歴史
- 2014年11月
- 第272回 神聖なるは山
- 2014年10月
- 第271回 そば屋と寿司屋の作法
- 2014年09月
- 第270回 鶴瓶師匠の秘密
- 2014年08月
- 第269回 コンクリートの研究
- 2014年07月
- 第268回 忠臣蔵の本音
- 2014年06月
- 第267回 暗い人とは付合うな
- 2014年05月
- 第266回 八丁味噌の力
- 2014年04月
- 第265回 可能にする言霊
- 2014年03月
- 第264回 素朴な疑問
- 2014年02月
- 第263回 プロの鎧
- 2014年01月
- 第262回 人を観る
- 2013年12月
- 第261回 花を愛でる
- 2013年11月
- 第260回 鹿を遂う者は山を見ず
- 2013年10月
- 第259回 いじめは卑怯だ
- 2013年09月
- 第258回 コンクリートの歴史
- 2013年08月
- 第257回 職人は芸術だ
- 2013年07月
- 第256回 あなたの町にも地震がくる
- 2013年06月
- 第255回 匠になれ
- 2013年05月
- 第254回 いつやるか。今でしょう。
- 2013年04月
- 第253回 男は度胸、女は愛嬌
- 2013年03月
- 第252回 慣れと油断
- 2013年02月
- 第251回 情けの本意
- 2013年01月
- 第250回 今日を懸命に生きる
- 2012年12月
- 第249回 修身の教え
- 2012年11月
- 第248回 戦いは粘り勝だ
- 2012年10月
- 第247回 勿体無い
- 2012年09月
- 第246回 リスク管理の発想を身につける
- 2012年08月
- 第245回 気配りと職場
- 2012年07月
- 第244回 嘘のない社会
- 2012年06月
- 第243回 仕事と油断
- 2012年05月
- 第242回 恩を知る
- 2012年04月
- 第241回 高松礼参
- 2012年03月
- 第240回 敬意と品格
- 2012年02月
- 第239回 無常に生きる
- 2012年01月
- 第238回 命がけとご飯がけ
- 2011年12月
- 第237回 日本人の仕来りと疑いの心
- 2011年11月
- 第236回 秋刀魚の歌
- 2011年10月
- 第235回 夏休みの宿題
- 2011年09月
- 第234回 いのちの根
- 2011年08月
- 第233回 仏が住む浄土
- 2011年07月
- 第232回 旗日
- 2011年06月
- 第231回 防災オンチ
- 2011年05月
- 第230回 まず一献
- 2011年04月
- 第229回 岩部八幡神社に参拝
- 2011年03月
- 第228回 勉学する年
- 2011年02月
- 第227回 働く意義
- 2011年01月
- 第226回 ある大工の教え
- 2010年12月
- 第225回 男の矜持(プライド)
- 2010年11月
- 第224回 ウツと哲学
- 2010年10月
- 第223回 赤ちゃんポスト
- 2010年09月
- 第222回 空海の教え
- 2010年08月
- 第221回 税金と私心
- 2010年07月
- 第220回 腹を立てぬ呪文
- 2010年06月
- 第219回 職人の技を守れ