IWABEメッセージ

Messages

第52回「信じて仰ぐこと」

 私の家の檀那寺は、半田の真宗大谷派・順正寺です。最近では本堂耐震補強工事やご本尊・阿弥陀如来立像修復作業等の計画があり、門徒(檀家)として打ち合わせに参加するためにお寺を訪れる機会も増えました。元来、歴史や神社・仏閣には強い興味関心があり、全国あちらこちらを訪ね歩いてきましたが、その割には檀那寺は近くて遠い存在でした。それが父の葬儀や納骨、時々の法事などを通して、とても身近に感じられるようになったのです。そこでふと気づいたことは、門徒を名乗り、法事などでは「正信偈(しょうしんげ)」を唱えていながら、通り一遍の表面的な知識は別として、浄土真宗や開祖・親鸞についてほとんどわかっていないということでした。浄土真宗の大谷派とはいわゆる東本願寺(真宗本廟)を本山とする宗派のことですが、何もわからずに寺を訪れていてはただの観光客になってしまうと思い、親鸞の著作や真宗の研究書、それに伝記や小説の類をあれこれ読んでみました。しかし、親鸞の『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』は極めて難解で、予備知識や注釈が無ければ到底理解できません。弟子の唯円が著した『歎異抄』にしても、有名な悪人正機説の「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という表現こそ簡単ですが、その意味は無限に深く、思考は終結しないのです。ただ専ら「南無阿弥陀仏」と念じることが最も大切なことであるとわかっていても、またそんなに易々と理解できるような教義ではないと自覚していても、あまりの自らの不勉強に恥じ入るのみです。
 先日ご縁があって、三重の津にある専修寺(せんじゅじ)を訪れることがありました。専修寺は、浄土真宗の一大宗派である高田派の本山で、数々の文化財から成る宏大な伽藍は圧巻、見事の一言です。特に国宝の御影堂や如来堂は実に堂々とした巨大木造建築で、この維持管理に努めてこられた多くの方々のご苦労が窺えます。同時に、当地方にこれだけの真宗信仰の地があるにも拘らず迂闊にも最近まで訪れずにいた不明を、これまた恥じ入ったのでした。今まで何をしていたのか、全くもって不勉強の極みです。
 こうしてみると、「あなたの信仰は何か」と改めて問われるとすれば、正直なところ、はて、と首を傾げざるを得ません。日々平々凡々と過ごしていると、あえて問われるまでもない当然の事柄として素通りしてきてしまったテーマだったのでしょうか。勿論、自らの興味関心のためだけでなく、学問的必要性から、洋の東西や時代を問わず、様々な思想に触れてきました。ギリシア哲学、キリスト教、ローマ法といった西洋思想三本柱のみならず、東洋や日本独自の哲学・宗教思想まで、少しでも知ろうと努めてきたこともまた事実です。しかし、ここで重要なことは、単に知識の問題に止まらず、信仰そのものへの向き合い方にこそあるのでしょう。ましてや信仰は論証の域外にあるのです。
 江戸時代の国学者・本居宣長が古典の徹底的な分析研究を通して問うたのは、古来日本人ならば誰もが持っていた、素直で美しく、柔らかで感受性豊かな心持ちとは何か、自然や世に優れたるものを畏怖崇敬する、純粋かつ敬虔な姿勢とは何かということでした。そこでは「もののあはれ」や「やまとごころ」を強く唱えましたが、同時に、意識的にであれ無意識的にであれ、何でも儒教と仏教(儒仏)の考え方を判断基準にしようとする「漢意(からごころ)」に対しては厳しい姿勢で臨みました。宣長さんにとって、儒仏の考え方は既に当時の日本文化に、また日本人の生活に深く浸透しており、従って、日本人固有の本来的な精神なり価値観なりを知るには、儒仏のフィルターを除いた先にある古代を知らねばならず、それがため、そこに最も近いところにある資料『古事記』『万葉集』等の古典研究に心力を尽くしたという訳です。この大前提には、儒仏が混淆する前にこそ真の日本人の心持ちとか日本の国柄等から成る文化が存在し、それらはよりよき文化であったに違いないという宣長さんの確信(直覚)があったのだと思います。
 研究上これほどまで儒仏に厳格であった宣長さんですが、他方で孔子を「よき人」と評し、仏教の世界にも敬意をもって接していました。それは宣長さんに「公私の別」があったからではないでしょうか。ここでの「公私」とは、社会全体と宣長さんとの関係を指し、また本居家一族と宣長さんとの関係をも意味します。彼は、学問的主張を個人として展開するには、社会とか他者への配慮・尊重が不可欠であると考えていました。以前にも触れたように、自己と他者との対立や矛盾による衝突を乗り越えて、自己主張と他者尊重を内心において見事に整理して両立させていたのです。
 本居家の菩提寺は、松阪の新町にある樹敬寺という浄土宗の寺院です。本居家(小津家)の人々は代々熱心な信者でした。当然宣長さんも由緒ある本居家系統の一員であり、先祖を敬い、家を統べ、後世へと伝えていく責任を負っています。勿論、ただの義務感だけでその役割を務めていたのではなく、毎日家の仏壇の前で心静かに合掌していたのも、祖先の歩みへの敬慕とともに、仏教思想の無視し難き何らかの「引力」のようなものを感じ取ってのことだったのでしょう。
 宣長さんは、遺言により墓を2つ設けました。ひとつは彼個人の墓で、松阪の山室山にある「奥墓(おくつき)」、山桜が美しく咲く彼流の墓です。もうひとつは一族の菩提寺・樹敬寺にあり、妻の勝との合葬墓で、長子・春庭夫妻の墓も隣にあります。宣長さんは自ら戒名を付けました。「高岳院石上道啓居士(こうがくいんせきじょうどうけいこじ)」、高い志をもって『古事記』を解明した彼の生涯を象徴しているようです。
 儒仏一辺倒の「漢意」を排した宣長さんが仏教寺院に墓を建て、自分で戒名まで付けたとなると、彼の儒仏排斥はやはり学問的方便だったのでしょうか。本当のところ彼は仏教についてどう考えていたのでしょうか。大変難しい問題でよくわかりませんが、ただ彼は公私を両立させていた、即ち本居家一族の信仰と宣長さん個人の信仰とを上手に両立させていたということは確かでしょう。しかも、単なる処世術の結果というよりも、その2つの信仰が互いに全く隔絶するようなものではなく、どこかで重なり合う部分を持っていたようにも見えます。だからこそ、公私の決定的対立や衝突を避け得たのかもしれません。
 今の日本国憲法では信教の自由が保障されています。つまり、法律的に信仰は専らその人個人に依拠し、公共の福祉に反しない限り、何を信じてもよいし、何も信じなくてもよいという理屈になっているのです。(ただ、「何も信じない」「無宗教だ」、と一見剛胆で勇ましい発言をする人も、実はよくよく聞いてみると、自らの非力・不完全を認め、時に何ものかを信じて頼り、それにすがりついているというのが嘘偽りのないところのようです。)しかし、法的な観点から少し離れて考えてみると、ひとりの人間の信仰には、やはり個人の信仰と一族の信仰の両方があり、それが幸運にも全く一致するケースは格別、事実としてどちらか(あるいは両方)を無にして特定の立場を選択することは理論的には可能でも、どうにも乾燥しきった不自然な割り切り方に思えてなりません。その選択がいかに苦悩の末の苦渋の決断によるものだったとしても、現実には機械的に一刀両断なんぞできはしないのです。いや仮に、どちらか(あるいは両方)の信仰を無にする選択をしたつもりになったとしても、無にされた選択肢とそれを信じる人々への配慮・尊重は不可欠です。何故ならば、自己は自己のみでは存立し得ず、なおかつ過去と未来に責任を有するからです。これまでも繰り返し言及してきたテーマですが、連綿と流れ続ける歴史や伝統の最先端を生きる者は、その流れから逃れ得ず、またその流れの中でしか生き得ず、よってその流れとの何らかの接触がなければ存在し得えず、さらにその流れが未来へ向かって続く以上、後代の人々や社会への一定の責務を負って浮き身に工夫せざるを得ないのです。先達の築き上げてきた価値観を最大限理解して継受しつつ、自らの価値観なり宇宙観なりを責任もって形成していくという、まさしく「しなやかな思考」が重要になるのでしょう。
 日本人は信仰についていい加減だ、と言う評論家がいますけれども、決してそうとばかりは言えず、むしろいつの時代も、自己に最も相応しい信仰の「姿」を求めて大いに悩み、解決の糸口を模索しているのだと思います。教派・宗派を問わず、信仰の過程で不可避な苦悩でしょう。
 そこで個人と一族の関係について改めて考えると、宿命的なことに一族の中にこそ個人があるという見方があります。また他方、個人、つまりひとりの人格は多面的で、どの面も決して他の面には通約され得ず、しかもそこには他者と隔絶した「理論上の個人」面と一族などの他者と接続した「一員としての個人」面が併存するという見方もあります。この複雑な関係をどのように整理して一人格を成立させるのか。正解は不明ですが、宣長さんは宣長さんなりの整理ができていたのでしょう。勿論、私は彼のように見事な解決はできませんが、引き続きあらゆる事象への好奇心を失わずに、自分なりの仕方で、どうにか内心に平衡を保ち、平安が得られるように「しなやかな思考」を心掛けていきたいものです。その過程では、ものの見方や立ち位置を常に更新し続けていくことになるでしょう。
 信仰は、企んで持つものではなく、自然のうちに、穏やかに得られるものではないかと感じられてなりません。凡俗な人間の浅薄な想念でしょうか。まだまだ理知に偏っているでしょうか。生煮えの話しかできず相すみません。
 ここで吉川英治の長編歴史小説『親鸞』(昭和13年 講談社)の一節を、自戒を込めて引用します。煩悩に苦しむ範念(親鸞)が法然に救いを求め、専修念仏門の教義に予見なしに耳を傾けようとする姿勢の描写です。
 「従来の自分というものを深く反省(かえりみ)てみると、学問に没しすぎてきたため、学的にばかり物を解得(げとく)しようとし、どんな教義も、自分の学問の小智に得心がゆかなければうけ取ることができない固執をもっていた。理論に偏しすぎて、実は、理論を遊戯していることになったり、真理を目がけて突きすすんでいると思っていたのが、実は、真理の外を駈けているのであったりしてきたように思われていたのであった。……でこの期(ご)にこそ、まず自分の小智や小学やよけいな知識ぶったものを一切かなぐり捨てて、自分も世間の一凡下でしかないとみずから謙虚な心に返って、この説教の席にまじって、耳をすましているのであった」。
 さて、いよいよ当期は第2コーナーに入りました。時間の流れは、年末に向けてさらに加速し、仕事は忙しさを増します。健康管理と安全衛生管理を特に重視し、年末まで緊張感を持続させて職務に邁進しなければなりません。
 だからこそ、傲慢さを恐れ、かつ謙虚さを忘れずにあって、無事竣工引渡ができるように願う、「ものづくり」への「祈りの気持ち」を大事にしていきましょう。ご安全に。

岩部建設株式会社 〒470-2345 愛知県知多郡武豊町字西門74番地 TEL 0569-72-1151

© 2006 Iwabe Corporation