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第81回「独行道」

 中学生の頃に読んだ吉川英治著『宮本武蔵』を最近になって改めて読み直し、新たな感動を得たという話を以前に書いた覚えがあります。この作品は、ともに稀代の剣豪である宮本武蔵と佐々木小次郎とが巌流島(正式には「船島」)で雌雄を決する場面までで完結しており、その後武蔵が熊本で終焉を迎えるまでにどのような人生を送ったかについては、小山勝清著『それからの武蔵』において描写されています。いずれの長編小説も中村錦之助(萬屋錦之介)主演にて映画やテレビ番組で映像化されており、「武蔵と言えば錦之助、錦之助と言えば武蔵」といった定評すらあるぐらいです。最近の小説では、同じく武蔵の後半生を扱った稲葉稔著『武蔵 残日の剣』を面白く読みました。無論のこと、武蔵自身が自ら創出した兵法「二天一流」の心構えと技法を解説した自著『兵法三十五箇条』、さらにそれを敷衍した『五輪書』だけでなく、武蔵に関する伝記、研究書、紀行本の類など何冊も読み漁りました。どうやら好奇心を原動力とする興味関心拡散の勢いは止まることがなかったようです。書物に触れた後は「現地訪問」の欲求が生じ、これも先般書いたように、名古屋の笠寺観音・笠覆寺や半僧坊・新福寺にある武蔵碑を訪ねたのですが、この「現地訪問」即ち「ゆかりの地巡り」をしたいという衝動も強まるばかりで、日帰り旅行の強行軍なれど、九州地方や中国地方へと「積極的に」旅を重ねたのでした。まさしく好奇心は旅の疲れと懐具合を凌駕して働くもののようです……まあ、度が過ぎるのも考えものではありましょうが。
 そもそも武蔵がどこで生まれたのかについては諸説紛々、それぞれに根拠となる資料等があるものの、はっきりとはわかりません。武蔵自身は『五輪書』の冒頭に「生国播磨(はりま)の武士」と記述しており、また武蔵の養子・伊織(小倉藩・小笠原家の家老)が武蔵の死から9年後に小倉の手向山に建立した「碑文」には「播州(ばんしゅう)之産」と撰文されています。播磨の国、つまり播州とは今の兵庫県南西部のことです。ただ、この播州のどこが出生地なのかについても、兵庫県の高砂市なのか、太子町なのかで見解が分かれています。武蔵や伊織といった当事者がここまで明言しているので少なくとも「播州説」で異論はないはずなのですが、それとは別に「作州説」もあるのです。作州とは美作(みまさか)の国のことで、今の岡山県北東部にあたります。特に吉川英治の『宮本武蔵』が「作州説」を採ったため、現在でも支持する人が多い説ではあります。ご当地の「武蔵の里」や平福界隈を歩いて回りましたが、その地で一時期まで武蔵が生活していたことは事実のようです。
 武蔵は、16歳の時に但馬(たじま)の国の「秋山」という強力の兵法者に勝ち、その後、奈良・宝蔵院流槍術の高弟を倒し、さらに京都・吉岡道場の当主以下門人までを悉く打ち果たしたのでした。彼は『五輪書』で生涯を振り返り、諸国の兵法者と「六十余度迄勝負すといへども、一度も其利を失わず」と述懐しています。こうして繰り返された勝負と鍛錬の中で、二刀流の剣術が編み出されていったのでした。……それで巌流島。細川家兵法指南の佐々木小次郎は「燕返し」という技で有名な独自の流派「巌流」を発明した武芸者。小次郎との決闘は、日本一の剣術家を決する勝負であったのです。ご存じのとおり、刻限より遅れて到着した武蔵が勝ちを収めたのでした。
 武蔵は巌流島へ渡る際、下関側の赤間神宮近くから船出したとされます。関門海峡に浮かぶ巌流島こと船島。船の形をした小島(現在は埋め立てにより大きくなっています)故そう名付けられていましたが、敗れた小次郎がここに葬られたのち、いつからか巌流島と呼ばれるようになりました。考えてみれば、関門海峡は、武蔵・小次郎の決闘のみならず、源平の「壇ノ浦の戦い」、欧米4カ国連合艦隊と長州藩との「馬関戦争」の舞台でもありました。穏やかな海波、美しい港町の光景からは想像もつきません。現在、連絡船は、下関・巌流島・門司の三カ所間で運航されています。
 武蔵の出生地には諸説あるものの、死没地ははっきりしており、熊本です。熊本の細川家に仕官した晩年の武蔵は、多くの弟子に「二天一流」を教授しただけでなく、水墨画を始めとする数々の美術工芸品を創作し、後世に残したのでした。彼はただの剣豪ではなく、研ぎ澄まされた才気と芸術的センスに溢れた武人、「風雅のたしなみ」を持つ「文武の人物」だったのです。熊本には武蔵関連の史跡や施設が多く、武蔵が『五輪書』を書き上げた雲巌禅寺「霊巌洞」、多くの武蔵関連資料(修復なった「宮本武蔵肖像画」は必見)を蔵する「島田美術館」等々、枚挙にいとまがありません。
 ところで、先ほど武蔵の死没地は熊本だと言いましたが、その墓地についてはこれまた諸説紛々なのです。熊本の「武蔵塚」か、「武蔵供養塔」か、「西の武蔵塚」か、いやいや「小倉碑文」ではないか、美作・武蔵神社にある墓ではないか……。ただ、ここには、そもそも「『葬る』とは何か」「墓とは何か」という問題があって、それに一定の見方を示すことも必要とされるのではないでしょうか。いずれにせよ、私の見たところ、どの「候補」にも一応もっともらしい理由と相応しい雰囲気が備わっていることは確かでしょう。
 そこで武蔵畢生の名著『五輪書』。残念ながら自筆本は現存せず、いくつかの系統の写本が伝わるのみとなっています。「万理一空」思想を基に展開される「兵法の道」と「太刀筋」の理論書で、これが大変難しい書物であるのは、剣の「実技」を知らねば武蔵の真意や哲学の半分も理解できないからです。読めばわかるのではなく、心身の活動とリンクし、シンクロした時に初めて会得できると言ってもよいでしょう。事実『五輪書』の文中には、よくよく自分自身で考え、工夫し、鍛錬を重ねて実践してみよ、との記述が何カ所にもわたって出てくるのです。その意味で、兵法の真髄は、実人生の極意と重なるようにも見えてきます。
 『五輪書』の自筆本が現存しない一方で、『独行道(どっこうどう。正式には「獨行道」と表記)』という自筆の自戒書が残されています。『五輪書』を書き上げ、亡くなる直前に著された全21条(19条という説もあり)の書で、自らを律する「人生訓」が列挙されています。武蔵自身が己の生涯の現実の生きざまを写し出したのか、理想とした信条を掲げたのか、弟子達に向けて兵法の道を極めるに必要な覚悟を暗に伝えたのか、本当の意図は不明です。煩悩から脱しきれない弱さの裏返しとして強い言葉が発せられたのでしょうか。ともかくも、あまりにも己に厳しい特異な「生き方」であり、孤高の兵法者、孤剣に生きる求道者の姿をまざまざと見せつけられているようであって、それ故に武蔵の実像に迫ることができる格好の書であると言えましょう。以下1条ずつ列記してみます。(各条に番号を付け、適宜仮名遣いを改め、漢字を使用します。カッコ内の訳文は意訳です。)
  1.世の道にそむく事なし(人の道に背反することはない)
  2.身にたのしみをたくまず(自分自身娯楽を企図することはない)
  3.よろずに依怙の心なし(どんなことでも身びいきや依怙ひいきはしない)
  4.身をあさく思い、世をふかく思う(自身のことより世の中のことを深く考える)
  5.一生の間欲心思わず(生涯を通じて、名利などを欲求する気持ちを持たない)
  6.我事において後悔せず(自分が行ったことであれば後悔しない)
  7.善悪に他をねたむ心なし(事の善し悪しに関わらず、他人を妬む気持ちは持たない)
  8.いずれの道にも別れを悲しまず(どんな状況におかれても、別離を悲しまない)
  9.自他共にうらみかこつ心なし(自他共に恨んだり、不平不満を言う気持ちはない)
 10.れんぼの道思いよる心なし(人を恋い慕うことは考えない)
 11.物毎にすきこのむ事なし(物事に好き好みはない)
 12.私宅においてのぞむ心なし(自分の住居について特に願望はない)
 13.身ひとつに美食をこのまず(身ひとつのことだから、贅沢な食事は好まない)
 14.末々代物なる古き道具所持せず(後世まで使い伝えられるような古い道具は持たない)
 15.わが身にいたり物いみする事なし(自身に限り、縁起にとらわれることはない)
 16.兵具は格別、よの道具たしなまず(兵具は別だが、その他の道具は愛好所持しない)
 17.道においては死をいとわず思う(自分の生きざまとして死を避けないと考える)
 18.老身に財宝所領もちゆる心なし(老齢の身にあっては財宝や所領を持つ気持ちはない)
 19.仏神は貴し、仏神をたのまず(仏神は貴いが、仏神にすがることはしない)
 20.身を捨てても名利はすてず(身命を捨てても、名誉を捨てはしない)
 21.常に兵法の道をはなれず(いつにあっても兵法の道を離れはしない)
 自らの人生や生業に照らし合わせてみても、これらすべてを実現できる訳もなく、それにまた全く同じ行動を取る必要もないでしょう。しかし、『独行道』各条に無関心や無関係を決め込むのもなかなか難しいものです。各条は我々に何事かを力強く示唆し、波状に訴えかけてくるのです。抗っても抗いきれず、抗ったつもりが結局紐帯につながれていることに気付くのです。個人だの自立だのと立派なことを口にしたところで、先人の達観や優れた叡智の前にあってはどれほどのものにやありましょうか。そうした達観や叡智の光は、たとえそこから遠く離れたところにあっても、ほんの微かであってさえ明かりを届けてくれるものなのです。それを少しでも感知した時、まるでロウソクの炎が急に大きく燃え始めるように、光の輝きは増大していき、暗愚の心底をしっかりと照らしてくれるに違いありません。その段に至って真価がわかるのです。畏敬すべき先哲の営み、無限の重みと深みと濃さのうちにある知の遺産の真価がです。同時に欲するようになります。知の遺産に万分の一でも触れてみたい、頂上ははるか雲上に隠れて見えぬほどの急峻な高嶺に一歩でも足を踏み入れてみたい、永遠に登頂できないかも知れないとしても登り始めたい、と。何故ならば、山が自分を惹きつけるからであり、また自分が登りたいと「自然に」切望するからです。
 武蔵を読み、武蔵を訪れてつくづく思うに、我々人間は誰であれ、知の頂や道の最果てに向かって挑戦し、そのために理論と実践の間で悪戦苦闘して、苦悩の末その半ばにして人生の幕を閉じていくという宿命から逃れられないものなのでしょう。偉人であれ、凡人であれ、多かれ少なかれ同じことが言えます。この上は、こうした宿命を幸運と捉え、日々好奇心をやせ衰えさせずに抱き続けていければと願うのみです。
 さて、間もなく3月を終え、今期第71期も最終コーナー、仕上げの時期に入ります。目前の仕事を丁寧にこなし、将来の仕事の種を蒔き、芽を育てていかなければなりません。自分でよく考えて力を発揮し、しかも仲間と総力を結集して為し得た仕事であれば、「我事において後悔せず」と言えるはずです。
 日々の積み重ねが、仕事に桜花の美しさを与えるものと確信して、先ずは安全最重視にて「ものづくり」に励んでいきましょう。ご安全に。

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