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第10回 「己の如く」

 家族で長崎へ行き、短い時間で駆け足ながら名所旧跡を見て回りました。確かにその日も「長崎は雨だった」のですが、親切で心やさしいガイドさんのおかげで有意義な時間を過ごすことができました。
 如己堂(にょこどう)は、僅か二畳一間の木造の建物で、かの有名な永井隆(ながい たかし)博士が療養のために晩年に住んだ庵です。敬虔なクリスチャンであった永井博士は、長崎医科大学(現在の長崎大学)医学部教授を務め、透視によるX線被曝と、原子爆弾の被爆により白血病で亡くなりました。庵の名前は、「己の如く愛せよ」という言葉から名付けられ、昭和天皇陛下やヘレン・ケラー女史をはじめ、多くの人々が訪問されたということです。『長崎の鐘』『この子を残して』などの著書も多く、命の続く限り執筆を続けようとした意志・使命感には強い感動を覚えます。
 博士の妻・緑さんは爆心地近くの自宅台所で被爆死し、僅かばかりの骨片と溶けたロザリオを残して天に召されました。2人の子供、誠一(まこと)さんと茅乃(かやの)さんは疎開していたため助かりましたが、余命幾ばくもなく病床にある博士がこの幼子たちを見つめる時の心境はどのようなものであったでしょう。破壊され尽くした長崎の街に、母もない子供たちを残して。きっと博士は深い信仰心によるやさしい言葉をしっかりと2人に伝え残して緑さんの元へ、それはまた主の元へ旅立ったことと思います。
 妻や子、家族を思う気持ち、魂の叫び。ここで私は、日航ジャンボ機御巣鷹山墜落事故で乗客の河口博次さんが最期に書いたメモ、いや遺書を思い出さざるを得ません。大切な言葉なのでそのまま引用させていただきます。
 「マリコ 津慶 知代子 どうか仲良く がんばって ママをたすけて下さい パパは本当に残念だ きっと助かるまい 原因は分らない 今5分たった もう飛行機には乗りたくない どうか神様 たすけて下さい きのうみんなと 食事したのは 最后とは 何か機内で 爆発したような形で 煙が出て 降下しだした どこえどうなるのか 津慶 しっかり た(の)んだぞ ママ こんな事になるとは残念だ さようなら 子供達の事をよろしくたのむ 今6時半だ 飛行機は まわりながら 急速に降下中だ 本当に今迄は幸せな人生だった と感謝している」
 河口さんの他にも、家族へメモを遺した乗客の方々がいらっしゃいます。死を目前にして、限られた時間の中で、一切の虚飾を捨てて家族への純粋な真情を表現するとなれば、恐らく河口さんの遺書のように、愛情が凝縮された、重く、温かく、かつ気高い言葉が吐露されることになるに違いありません。
 先日専務が亡くなりました。勤続53年、本当にご苦労さまでした。「仕事こそ我が人生」という言葉どおりの生きざまで、多くの工事を見事に仕上げ、後進を叱咤激励し続けてきました。仕事も闘病も最期まで諦めることなく、あらゆる可能性にチャレンジしようとする執念には、まさに鬼気迫るものを感じたほどです。
 亡くなってから2人のご子息にお話を伺う機会がありました。私的なことなので詳しくは書けませんが、自らの命のともし火が消えかかっていることを自覚した専務は、ご子息を前に何事かを語り伝えたということです。それは残される子供達の将来を考えての「魂の言葉」に他ならず、他人には決して真似することのできない「心の伝授」だったのです。
 文字通り倒れるまで働いた専務は、恐らく達成感や満足感を少しは感じながら、奥様の待つ極楽へと向かい、会長はじめ先に天界に旅立った役員の皆さんと「役員会」を開催していることでしょう。どうか引き続き我々をお見守りください。
 今日も現場では多くの専門工事作業者の皆さんが一生懸命ものづくりの仕事に励んでいます。皆さんそれぞれに、家庭があり、人生があります。そうした皆さんが毎朝「行ってきます」と言って家を出発し、現場に集い、技を発揮し、また家路に着くのです。
 建設作業においては「安全」こそ最重視されるべき事柄ですが、それはやはり「行ってきます」と言って家を出た人を無事に帰宅させて元気に「ただいま」と言えるようにすることを目的とすると言ってもいいでしょう。
 作業者本人は勿論、その家族を悲しませてはいけない。職場の仲間から怪我人は出さない。自分の現場で事故は起こさない。この強い決意で仕事に取り組んでもらいたいと願っています。
 強い雨が降り続ける中、長崎・如己堂の前で、様々な人々の、様々な結びつきと様々に交錯する心情について思い巡らしていました。
 天主堂の鐘の音が聞こえたような……。
 ご安全に。

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