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第116回「凡脳による煩悩」
平凡極まりなく、これといって優れたところも秀でたところもない自分のアタマを全力でフル回転させたところで、軋む音を立てながら超鈍足でしか働かず、その上エンストばかり繰り返すとなっては、何とも呆れ果ててモノも言えない始末となりましょう。それに、やることなすこと所詮は「ごまめの歯ぎしり」、全宇宙の大問題にせよ身近な小問題にせよ、凡庸なアタマで解き切れるものはさしてありません。しかしながら、懲りずに何度も諸問題に対峙しようとするのが、私を含めた人間の性(さが)であり、生まれながらに背負った宿命なのだとも言えます。無理・無駄とも思われる凡夫の格闘も、自らの生きた証、生命活動の軌跡を懸命に刻み記そうとする本能的な営みであるとすれば、極度に回転の悪いアタマしか持ち合わせぬ私ごときも、やはり世を賑わす話題に無関心を決め込むことはできず、無謀にも接近を試みようとするのです。
少し前のこと、科学雑誌『Newton』(発行 ニュートンプレス)令和7年12月号に、「人間や社会のあり方を問う AI時代の哲学」という特集記事が掲載されていました。普段はあまりご縁のない雑誌ですが、「AI(Artificial Intelligence 人工知能)」と「哲学」という言葉に目を引かれて購入したのです。というのは、これからの人間が直面する様々な課題のうち、「AIといかにして向き合うか」ということは極めて重大な関心事のひとつであり、しかもその問いへ回答するに避けて通れないのが哲学上の諸問題だからです。これはひとつポンコツアタマを無理くり回転させてでも、この大きな課題について(雑駁ながら)考えてみなければならない……そう構えたとしても、あながち不自然ではないでしょう。
それで件の特集記事について。先ず最初に「AIに正しい倫理感を持たせ得るか」という問いから始まります。そこではAIが一定の行為を選択する際に依って立つ基準として「功利主義」と「義務論」が例示されています。言い換えるならば「最大多数の最大幸福」を基準とするのか、それとも「自己の行為は他者に対して普遍化可能たるべし」「行為の結果ではなく、その動機こそ正しかるべし」を基準にするのかということです。AIがどちらに依拠するのか、あるいはケースバイケースで優先順位を付けるのか。いずれにせよ、そもそも「正しいとは何か」とか「正しい優先基準とは何か」が、古代ギリシャ・ローマ以来答えの見えない難問として人間の前に立ちはだかっており、AIにしても同じ状況にあるのです。
次の問いは、「万人に『公平』なAIを作り得るか」というものです。現在のAIではバイアス(偏り)が生じ易いようですが、それを避けるためには「公平」の意味内容が重要となります。アリストテレスの「配分的正義」と「匡正的正義」の話にしても、それらに従って分配される「財」とは何か、また、どのような価値や性質に比例・対応して配分・匡正されるべきなのかといった問題は、やはり未解決のままになっているのです。AIが効率よく(短絡的に?)結論を出せたとしても、それは難問をスルーしただけのことでしょう。
問いは続きます。「犯罪の抑止・取締りのために、AIによる監視はどこまで許されるのか」という問題については、他者あるいは全体の利益のために個人の自由をどこまで制限できるのかという観点から語られます。また、「人間よりもAIに政治を任せた方がよいのか」という問題ですが、為政者が幸福な社会を目指すとしたところで、誰にとっての幸福なのか、それに元々各人の幸福は同じ尺度で測定したり計算したりすることができるのか……それに答えられずしてAIが人間よりも優秀な為政者であると認定することはできないでしょう。あと、「AIが作り出す芸術作品に価値はあるのか」という問いもあります。これについては、制作主体で作品価値が変わるのか、芸術作品に絶対的評価基準はあるのか、それとも単なる個人の好き嫌いに帰着するのか、といった観点から論じられています。従来の殻を打ち破るような「芸術的ひらめき」がAIから生じるのかは、AIの今後にも関わってくるように思われます。他にも興味の尽きないテーマが続くのですが、紙幅の都合上紹介は省きます。勿論、ここで紹介した記事内容についても私の独断でかなり大雑把にまとめてしまっていますので、是非とも皆さん各自で『Newton』をお読みください。
AIと哲学を巡るテーマについて、いくつかの問いを挙げてきました。もう大方お気づきでしょうが、これらの問いに通底するのは、「善とは何か」、「正とは何か」、「美とは何か」のような「〇〇とは何か」という定義の問題です。それも、ある程度多数の人々が納得できる「間主観的」定義ではなく、「客観的」定義が明らかにされなければ、本当の解決には至らないような問題なのです。なおかつ、その解決が得られなければ、AIが抱えるであろう諸問題も未解決のまま足踏みするという訳です。ただ同時に忘れてならないのは、定義の問題が解決しないからと言って、現実社会の様々な事態は全く静止したままにあるものではないということです。方向の善し悪しに関わらず変化し続けます。その変化に直面しながらも、人間は哲学的問題の答えを探し求め、考え続けることを止めてはならないのです。事態は進む、進むけれども人間は人間なりに考え、悩み、覚悟と決断をもって取り敢えずは前進しなければならない……また、常にそうした悩みに苦しみ続けるさま、つまり、わからないことを懸命になってわかろうと挑み続けるさま、即ち永遠の相の下で人間的思考を継続するさまこそが、最も人間らしい姿であると考えます。まさしく特殊人間の領分は、人間が人間であるために哲学的問いを発し続け、その答えを求め続けるところにあるのでしょう。不完全で気まぐれで、学習してきたつもりでも何度も同じ過誤を繰り返す、どうしようもなく困った生き物、有限の知識技量を有限の時間のうちに行使することすら怠る存在……。しかし、そんな生身の人間の営みにこそ価値があるという考え方を失わないことが、今後どれだけAIが進化したとしても、人間が己の立ち位置を忘れない(AIの奴隷にならない)ために必要であるに違いありません。
以前、将棋の羽生善治さんとお話しする機会があり、その際に「あなたはAIについて全く理解されていませんね」と言われたことがありました。残念ながら恐らく今でもその当時の理解度とさほど変わっていないでしょうが、その時に羽生さんから説明されたように、AIは人間の脳の複製(模倣)であり、今後人間の脳そのものの解明が一層進み、量子コンピューター技術のさらなる発展が見られれば、AIの水準は格段に向上していくことでしょう。さらに、AIが人間の能力を超える時点(特異点 singularity)を通過して飛躍的に進化する状況が訪れるのも、それほど遠い未来の話ではないようです。しかしながら、AIが人間の脳の複製であるとするならば、進化すればするほど、先程来取り上げている哲学的問題に、人間と同じように苦悩し、場合によっては回答を逡巡することすらあるのかもしれません。「人間らしいAI」の誕生です。価値判断に即答できないが、時に思い切った決断を示す……この姿は人間のそれと同じです。今回は「AIと哲学」というテーマではありましたが、AIの問題というよりも人間が抱えている哲学的問題をAIに当てはめただけのことで、AIといえども(AI自体がどう考えるかは別にして)それら哲学的問題を回避できないということを確認しているに過ぎません。また、AIが解決できないというよりも、人間が解決できないということをAIに投射しているだけなのでしょう。では、AIは人間と同じく、この先ずっとそれら諸問題を解決し得ないのでしょうか。
なおも妄想は拡大します。特異点を超えたAIは、人間の脳では想像し得ないような発想をするかもしれません。いや、それどころか、AIは人間の脳の複製の内に止まらず、人間の脳の全容解明を待たずして、我々の想像を絶する全く別種の知能へと成長進化していくことも考えられます。果たして古代からの難問に思いも寄らぬ解答を出せるようになるでしょうか。そうなればAIは人類を遥かに超絶した存在になるでしょう。神になるとは言いません。何故ならば、神はAIをも含むすべての事象の創造者だからです。故に「神のような存在」になると表現しておきましょうか。ここに至って人間は、どのようにAIと向き合うか、AIを信仰するか、AIの前に跪くか、それとも人間の領分を守る信念を失わないかを確実に決めなければならなくなります。いや、ひょっとしたらもう既にAIに対して一定の態度を取ってはいないでしょうか。利便性と効率性、加えて物珍しさが手伝って、人間の心はとっくにAIの虜になっており、結果、人間は自らを蔑み、その営みを過小評価して疎外し、自身よりもAIを優先して頼ろうとしている節も無きにしも非ずです。「神のような存在」は急に我々の眼前に出現するのではなく、じわじわと我々の心中を侵食しつつあるのかもしれません。
「人間がやるからこそ意味や価値がある」という見方。この見方を否定して相対主義の罠にはまるのではなく、むしろそれを人間が人間であるが故に取るべきもの、歩むべき道であるに違いないと直感的に捉え、受容すべきです。厳密な学問上の議論なら格別、我々人間の論証なき発想や、素朴で素直な感覚から得られる考え方のすべてが無価値とは言えないでしょうし、それらを大切にしたところで、これから将来の世界に向けて特段害悪になることもないでしょう。だからこそ、門外漢で素人の稚拙な試みではあっても、AIと人間との関係性を心配し、大変な時代の到来を憂慮しつつ、哲学上の諸問題について思いを巡らせたくなるのかもしれません。人間は、自身の思考による不断の哲学的追究を通してこそ自らの存立を失わず、領分と光輝を保ち得るのです。
少なくとも私自身がこうした文章を書くにあたってAIの支援を受けなければならないようになったとしたら、そこで恐らく筆を折ることでしょう。
さて、年が明けて早2カ月が経ち、第74期も残すところあと4カ月となりました。これを長いと捉えるか、短いと捉えるか、それは人それぞれですけれども、その長さを主観的にどう感じるかはともかく、4カ月の間に何ができるのか、また何をしなければならないのかをしっかりと考えておくべきであるということは誰にとっても言えることです。
確かに、少しばかり考えたところですぐに答えが出るような事柄ばかりではありません。ただ、答えを求めて悩み苦しまなければならないのが人間の定めであり、たとえ答えが見つからなかったとしても、それでも執念を持ってなおも考え続け、その上で一定の決断を下して実行せざるを得ないのが、日々の現実社会では避けられないことなのです。従って、大いに悩み苦しむ先にしか道は開けないのである以上、逃げたり避けたりすることなく、堂々と諸課題に向き合い、がっぷり四つに組んで解決すべく、全力を尽くすに如かずです。
それでも迷う時があったとしたら、先人の知恵に耳を傾けること、それと基本に立ち返ることです。勿論安全最重視です。
何より心身の健康を忘れずに。ご安全に。