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第122回「それは進んでいるのか」

 日常生活の中で、「それは本当に進んだ仕方なのか」という疑問を抱くことが度々あります。最近とみに増えてきており、大概の場合イライラ感が上昇し、眉間にしわが寄るようなことになってしまうのですけれども、その「イライラ」そのものが理不尽なのか、それとも特定の「仕方」を「進んだ」と表現し、その通りに納得してしまうこと自体が理不尽なのかがよくわからないといったところに怒りの度合いが余計に強まってしまう理由がありそうです。以下、最近体験した「眉間にしわ」事例をつらつら書き連ねてみることにします。
 家電の不具合について問い合わせ先に電話してみた時のこと。「サービス向上のためにお客様との通話内容を録音させていただきます」というテープ音声に続き、「〇〇をご希望の方はダイヤル『1』を、△△をご希望の方は『2』を……」との説明が流れ、それを受けて該当するダイヤル番号を押すと、さらに質問が枝分かれして継続し、ようやくオペレーターと話せるかと思ったら、「只今大変混み合っておりますので、しばらく経ってからお掛け直しください」と非情な一方的通告がなされ、プツリと通話が切れてしまいました。仕方ないので、しばらく経ってからもう一度電話を掛け直したところ、「本日の営業時間は終了いたしました」なる終業宣言。要は、日を改めて掛け直せ、という指示です。確かにオペレーターの人数は限られているでしょうし、営業時間も決まっているでしょう。しかし、手間ばかり取られて簡単な会話を交わすところまで辿り着けないというのは、実にまどろっこしくてもどかしく、何とも苛立ちが募るものです。ほんの一言二言話せさえすれば、思いの外容易に意思疎通が図れるものなのに、一体何を遠回りしている(させられている)のでしょうか。果たしてここに顧客満足の向上なんぞ望むことができるのでしょうか。
 テレビのニュース番組を見ていた時のこと。局アナが流暢かつ丁寧にニュース原稿を読み上げているのに、途中で「ここからはAIがニュースをお伝えします」としてAI音声が局アナに代わってニュースを読み始めることがあります。局アナがそこにいるにも拘らず、どうしてAIに読ませるのか。「働き方改革」の一環なのか。AI利用の実験なのか。正直言ってAIによる読み上げ方には微妙なところで違和感を覚えざるを得ませんし、仮に多少の言い間違いがあったとしても、生身の人間がカメラに向かって語りかけてくれた方が視聴者にとってもニュースの内容を余程理解しやすいでしょうし、少しぐらいは耳を傾けてみようという気が起きるのではないかと想像します。今はまだニュースの読み上げを機械任せにする程度でしょうが、その内容の正確性や適切性を判断することまで人間が関与しなくなってしまうのも時間の問題なのかもしれません。
 外国語の文章や会話を翻訳したり通訳したりする時のこと。海外に住んだこともなければ、外国人に囲まれて日常生活を送っている訳でもなく、ただごく一般的な公教育によって外国語を勉強してきたに過ぎず、紙の辞書と文法書を片手に横文字と格闘してきた者からすれば、瞬時に翻訳・通訳してしまう当世の機械の性能には全く驚かされるばかりです。但し、その機械を通じてなされた翻訳・通訳が正確かつ適切であるかについて何の確認もせずに鵜吞みにした結果、誤った形で内容が伝達されてしまい、時に深刻かつ重大なトラブルを引き起こしてしまうことがあります。勿論、上述のニュース読み上げの場合も同じく、今後も引き続き機械性能の向上が図られていくに違いないでしょうが、そうであったとしても、人間自身が語学能力を高めるべく研鑽を重ねていかなければならないことに変わりはありません。どの程度まで高められるのか、機械に追いつくのは無理ではないかなどということは全然関係ないのです。「機械が全部やってくれるから人間は何もしなくてよい」という発想で語学学習から離脱し機械に全依存してしまうのではなく、あくまでも自己判断能力を失わない「考える葦」として主体的に立ち振る舞う覚悟が必要なのです。
 タクシーを利用した時のこと。「〇〇まで行ってください」と伝えると、ドライバーから「数日前にこちらの方へやって来たばかりなので、道がよくわかりません」と返されました。「カーナビを使ったらどうですか」と提案すると、今度は「カーナビの使い方がわかりません」との回答。二種免許保有者とは言え、人手不足のためか、訓練不十分のまま実地に出されたようです。昔ならば何日もかけて地図を読み込んで覚え、先輩ドライバーからしっかりと路上指導を受けた上で乗客を迎え入れていた筈です。機械に頼るだけでなく、誰でも機械が使えて当たり前だという思い込みを大概のビジネスが前提としているさまを見るにつけ、カーナビなきマニュアル車を華麗に操縦しながら愉快な会話を交わしてくれた、かつてのドライバー達が懐かしく思われるだけでなく、人間によって直接に提供されるサービスが一定水準に高められた先にしか顧客満足は生まれないのではないかという素朴な疑問を抱いてしまいます。ここにおいても、人間自体の知識技量の練磨、さらに言うならば人間力の向上が必要とされているのでしょう。抗い難い機械化という大きな流れのうちにあっても、安直さと横着さを感じ取られないようにするために、なお一層のこと人間はその行動において熱意と真剣さが伝わる工夫を凝らさなければならないと思います。
 では、これまで挙げた事例に共通することは何なのでしょうか。そもそも何故このような事態が発生しているのでしょうか。人間の変わらぬ性向として、利便性や効率性の向上、物理的・心理的負担リスクの低減、人的資源や知識・情報などの不足補充などを求め、それを意図した生き方、働き方、対処法を選択しがちである点がよく指摘されます。この選択の中には、AI導入を始め様々な形式の機械化が含まれています。前もって触れておきますが、機械化の中には、人間が安全のうちに生存するために必要不可欠である(止むに止まれず受け容れざるを得ない)ものもあります。ここには取捨選択の余地はないでしょう。その一方で、ただ楽をしたいと考え、易きに流されて取り入れた機械化もあります。世の中は楽なことや易きことの対極にある事象に満ち満ちていることの裏返しとも言えましょうか。
 自分が不快に感じること、厄介に思うこと、障害と判断するものが、まさしく自身へ仕向けられた時に、それらの物事を次々と言わば「不快事項」に分類し、一切の「不快事項」から解放される状態を最上とする風潮は近年際立って強まり、それに抵抗でもしようものならば容赦ない攻撃にさらされることになります。無論のこと、明らかにひどい「不快事項」は厳格に排除されなければなりません。しかしながら、現実的にすべての「不快事項」が排除されたり、そこから隔絶されたりするような楽園が、元々この地上に存在するのでしょうか。「不快事項」に遭遇しない人生なんぞあり得るのでしょうか。そもそも「不快事項」は何でも他者起因なのでしょうか。もしかしたら自己起因で、場合によっては自己と他者の両者起因で生じることもあるのではないでしょうか。それとも、少しでも「不快事項」が減少すればよいという程度問題なのでしょうか。人々は皆、程度問題と割り切った上で言動を取っているのでしょうか。何であれ「不快事項」皆無の世界は幻想の中にしか存在しませんが、それでも人間は幻想世界に魅了され、つい足を踏み入れてしまう難儀な生き物のようです。
 ともかくも幻想の夢から覚めやらず、ただひたすらに一方向へと突き進み、人間と社会を規定していこうという流れに我々が溺れかかっていることは事実です。その過程において最も顕著になりつつあるのが、人と人との接触が減りつつあるということなのです。社会において人と人とが一定の接触をすることは当然なのですが、その際には常に融和が保たれ、平和裡に時間を過ごせるとは限らず、少なからず衝突が生じるものです。一般的でフツーの人は、個人の願望と社会の趨勢に基づいてこの衝突リスクを下げようとする、即ち、予防的に人との接触を極力減らそうとするのです。これぞ目的達成のためには効果的でわかりやすい行動選択だと信じ切っているのでしょう。人と会わず、対話もせずに目的を果たせればベストだという考え方です。不快を避け、安楽を求め、できれば特段何もせずに成果を得られるように企図する場面では、機械が重要な役割を果たしているでしょうし、その分のこと成果を生み出すという営みにおいては人間の主体的関与は減衰してしまうことでしょう。であるとすれば、クリエイターの座から転落した人間は主従逆転、ただの付けたりになり下がり、その存在価値は著しく低下する……こう考えることは杞憂なのでしょうか。
 どれだけ心配しようとも、しかし「これぞ時流なり」とする主張が声高に叫ばれ、「みんなが言っているから」という「みんな主義」が世を席巻し、それを盲信する人々はカッコ付き「進化」という言葉に酔いしれるのです。ところが、こういう状況こそ最も危険であることは、最近我々が体験したいくつかの事象からしても明らかです。激流に飲み込まれ、渦巻く熱狂に前後不覚になりそうな時にこそ冷静であらねばならないことは歴史が証明しています。我々は、進化に乗り遅れることを恐れるのではなく、先ずは進化と「進化もどき」との違いを見極めて、退化や劣化を惹起しないように努め、何より社会の分断や、人間の本源的な価値や意味の喪失を招かないようにするという「構え方」を基本に据えたいものです。
 そこでまた問うてみるに、我々にはオール・オア・ナッシングの変化が本当に必要なのでしょうか。必要な限りの変化だけでは不十分なのでしょうか。それは全変化への恐怖心やためらいの帰結と見做されてしまうのでしょうか。我々は人間であり、社会の構成員であり、元来安定して充実した生を全うすることを希求する生き物です。ならば、華々しいムードやブームなどの表層に惑わされて無反省に事態を判断してしまうのではなく、地味でも確実に変化の名に値するものを、誰あろう自分自身の熟慮によって見定めるだけの「ゆとり」が絶対的に要求されているのだと踏まえるべきではないでしょうか。拙速は巧遅に如かず。壮大な「勘違い劇場」の派手な芝居に夢中になり過ぎていると、取り返しのつかない過誤を犯してしまい、全く知らぬ間に人間としてのアイデンティティーを失ってしまうでしょう。
 我々は今こそ人文科学的な世界に目を向け、そこから上等なる智恵を学び取り、各人の生き方に反映させなければならないのではないでしょうか。その上で自律と修練です。機械化に反比例するのではなく、むしろ比例して人間に求められる二語……この二語が実践されるところにあってのみ、人間は進化できるに違いありません。近頃心底よりそう思うのです。
 さて、酷暑が続く中、日々仕事に取り組んで奮闘しているすべての皆さん、本当にご苦労さまです。安全の前提は個々人の健康にあります。引き続き体調管理に十全を期し、職場を同じくする人々への配慮を忘れずに職務に邁進してください。
 さらに、いかなる仕事においても必ず目的と手段があります。手段や技法にこだわり、そこにばかり目が行って目的を忘れてしまっては、それこそ本末転倒です。行く先を見失って彷徨することがないようにするためには、常に考え、工夫を重ねていくしかありません。
 行く手に光る星を確と見つめて、これから先も皆で歩み続けていきましょう。ご安全に。

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