IWABEメッセージ
第56回「ある対話」
AとBは、職業こそ異なれ、昔からの友人です。以下は、そんな友人同士の他愛ない対話です。従って、意味があるかとか、役に立つかとかについては、一先ず措いた話です。
A 「いやあ、本当に全く頭にきて仕方なかったんだ。折角楽しみにして観に行った映画だったのに、これじゃあ台無しだよ。」
B 「そんなに顔を真っ赤にして勢い込んで、一体どうしたと言うんだ。話を聞かせてくれ。」
A 「どうもこうもないよ。映画なんてのは大体本編が始まる前に劇場内の注意事項をアナウンスするだろう?それを全く無視して、しかも平然とした奴が真後ろの席にいたんだ。上映中に携帯電話で話す、妙にガサゴソと動いて座席をキイキイ揺らす、俺の席をゴンゴン蹴ってくる、ジュースは床にこぼす、仕舞いには口にしていたポップコーンを勢いよく吹き出して、俺の頭にぶっかけてきた……。感動巨編に涙するどころか、怒り過ぎて白けてしまった。」
B 「そりゃ災難だったな。それで君はどうしたんだい?」
A 「我慢の限度を超えていたからね、後ろの席の奴に『おい、いい加減にしろよ』と注意した訳だ。そうしたら、そいつ何と言ったと思う?」
B 「『どうもすみませんでした』と謝ったかな?どうもそうではなさそうだね。」
A 「何か悪いことでもしたでしょうかという顔で、『こっちは金払って映画観てんだ。どんな観方しようがこっちの勝手だろ』と言い返してきた。つまり金を払ったら、映画を観せていただく権利を得たのではなく、何をしでかしてもいい権利を得たんだと言いたいんだろう。まあ、代金が何の対価なのか、劇場内のルールにはどういう意味があるのかなんて、よくわかっていないんだろうが、まあ腹が立って、腹が立って……。」
B 「すごい言い草だな。自分本位だから、劇場内のルールとかマナーなんて眼中にないんだろう。」
A 「でもね、金を払えばルールを守らなくてもいいという理屈はないだろう。他の観客達は静かにお行儀よく鑑賞しているんだよ、ひとりだけ勝手は許されないだろう。劇場には劇場という『場』のルールがあって、それをわかって入場し着席しているんじゃないのか。こういう奴はルールそのものに対する意識が低いんだな。きっと当事者同士で結ぶ契約なんてのも平気で破って守らないんじゃないか。」
B 「この世の中ルールだらけだ。法令や慣習、社会の常識、宗教の戒律、町内会の決まり、果ては家の中のトイレ掃除当番順まで、ありとあらゆるルールに囲まれている。どこでどんなルールが定められているかを全部知っている人なんかいないよな。穏やかに暮らしていれば、先ずルール違反になることは少ないだろうがね。」
A 「普通に生活していればそうだろう。」
B 「『普通』の意味も曖昧で複雑だけれども。まあ、とにかくこの世は契約社会だとよく言われるところだね。日常の至る所で、色々な形の契約が成立していて、その履行・不履行によって利害得失が大きく左右される。ただね、ふと思うことがあるんだ。その映画館の奴もそう思っていたのかもしれないんだが、僕らはどうして契約なるものを守らなければならないのか、とね。」
A 「おいおい、君ほど遵法精神が強く、ルールには厳しい上に、契約書面の一言一句にうるさい人間が一体どうしたというんだ。それに君だけでなく、大半の人々は約束事を守り、お互いの信頼関係を維持しながら、いわゆる所期の目的を達成しているのが現実じゃないか。」
B 「法やルールの遵守は万事の大前提で当然のことだ。でもね、暇なのかな、ふとそもそも論を考えるんだな。そもそも一旦契約を締結した以上、何故それを履行しなければならないのか、とかね。」
A 「だって法律にも書いてあるだろ。ほら、民法第一条第2項『権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない』だよ。」
B 「何故法律は契約遵守を謳うのかな。要は、『権利の行使及び義務の履行』は、どうして『信義に従い誠実に行わなければならない』のかな。もっと踏み込んで言えばだよ、僕らはどうして法律に従わなければならないのか、ということなんだが。」
A 「君は何を考えているのかね。からかっているのか?大丈夫か?そんなもの、契約するのも自分の意思、法律を作るのも国民の意思によるんだろ?自分自身が下す判断や決定、さらに自分自身が抱く考えや感情には責任持って従い、拘束されるのは当然じゃないか。」
B 「その『意思』なんだけどね、それはいつの意思のことを言っているの?」
A 「妙な質問が続くなあ。もっと素直になれないもんかね。そうねえ、難しく言やあ、過去に表明した意思、現在表明する意思、将来に関する意思すべてだよ。」
B 「そうだとして、どうして現在の自分は過去の自分に拘束されるのかな。また、どうして現在の自分は将来の自分を拘束できるのかな。大胆に言うと、自分の意思で今現在契約を守ろうとするとして、自分の意思で、随時随意に『契約を守りません』と考え直してしまうことはできないのかな。」
A 「過去だ将来だと言っても、所詮ひとりの人格だろ。別人格じゃないのさ。気まぐれで朝令暮改されても世間じゃ通用しない。誰あろう『あなた自身』の意思であることに変わりないのだからね。」
B 「そこをもう少し厳密に考えてみたいところなんだ。大雑把な話をしていると、途中取りこぼした点がいくつかあるような気がするんだが。」
A 「映画館の話から妙な方向へズレてきたな。まあ理屈でいくら言ってもね、現実はそうはいかない。それに世の中には大きな流れというか、慣習のようなものがあってさ、それから逃げ切ることはできないんだよ。考えてみなよ、契約を遵守することによって、社会全体の秩序が保たれ、その保たれる秩序から俺達は相当の恩恵を受けている訳だ。その恩恵を忘れ、自分勝手な主張ばかり言い出すと、君のような疑問を平気でぶつけてくる人間が登場するんだよ。世の中で従うことが求められる型を『規範』というのならば、『規範』意識そのものが弱まってきているのかな。でもね、弱まってきているからと言って『規範』そのものが無くなったのではないよ。話は全く別だ。」
B 「ということはだね、僕達が契約を守らなければならない理由は、社会秩序維持の観点もさることながら、その社会秩序の一員として、秩序そのものから恩恵やら利益やらを受けている以上、その秩序のルールを守ることは人として当然だから、といったところになるのだね。わかりやすく言うと、『タダ飯喰らい』や『おいしいところ取り』はけしからん、ということか。しかしね……。」
A 「いや、わかるよ。どうせ君は、なんで『タダ飯喰らい』とか『おいしいところ取り』がけしからんのか、と言いたいんだろう。こりゃ永遠に続きそうな話だぜ。だって、俺が何か言うとすぐに『何故、どうして』と追及してくるんだから。頭の体操にしては少し疲れるな。」
B 「現実には誰もこんなエンドレスの話に付き合っている余裕はなく、日々の生活に忙しい。悩み事も多い。歴史上有名な偉人達が束になってかかっても答えを出せそうになかった問題について、関心すら持たないし、持つ暇もないだろう。だから処世の術として、比較的多数の人に受け入れられている考え方なり決め事なりを、まあまあそれなりに、一応もっともらしいところで納得のいくものだとして『当たり前のごとく』受け容れているんだ。そうしてみると、僕達の周囲には、当たり前のこととして一切触れてこなかった事柄が山のようにあるね。気付いてか気付かないでか、その山を避けて歩いているのが日常だ。」
A 「人生は有限なんだよ。底無し沼にはまったかのように難題ばかりに向き合ってはいられないよ。それにね、人にはそれぞれもっと大切なことがあるんだから。言っとくがそれは、他人様にいちいち説明したり証明したりする必要のないことなんだしね。」
B 「確かにね。でもね、時にはその当たり前として素通りされることを、ふと立ち止まって深掘りし、再考してみることも健全じゃないかな。たとえ答えが出なくても、また何周もグルグル回って結局元いた位置に戻ってきてしまうとしても、好奇心一杯に『何故、どうして』と無限に問おうという姿勢を持ち続けることには少なからぬ意義があると思うよ。」
A 「それはわかる気がする。なにも大思想家のように難しい言葉を羅列して、知ったか振りをするんじゃなく、素朴な疑問について、偉ぶらずにじっくりと語り合えるような雰囲気に憧れるところはあるね。」
B 「今の君の話を聞いていて思い出したんだが、作家の井上ひさしが戯曲の構想を練る中で生まれた言葉にこういうのがある。『むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに書くこと』。今日の話にも、ひょっとしたらお互いの仕事にも同じことが言えるんじゃないかな。一見難しいことを、わかりやすくなるようにやさしく噛み砕いて吸収したり、伝えたり、実践したりしているか。わかりやすく、一見簡単で安易に見えてしまうことの内にも、深い意味が宿ることを忘れずにいるか。意味の深さを認識して言及するとしても、妙に深刻に重苦しくしてしまうのではなく、軽快に、楽しく、明るく、活き活きと語っているか。どれだけ陽気に、楽天的に、小事にこだわらず、前向きに臨んだとしても、軸はぶれずに、誠実に、真心込めて物事に取り組む姿勢は不変か……ということなんだろうな。」
A 「難しさは真摯さにつながるという結びだな。とにもかくにも、仕事についていえば結果を出さないといけないから、考えてばかりでもいけない。しっかりと土を耕し、種まきし、水やりをして育て、収穫する。これから何カ月かはシャカリキにならないとな。」
B 「どの仕事も一緒だろうけれども、基本を大切に、丁寧な仕事を心掛けて、お客様に喜んでもらうことに尽きる。でも何より安全最重視だ。お互い緊張感を持ち、油断せずにやっていこう。」
A 「そう、健康と安全が確保されてこそ、完成する仕事が輝くし、家族の笑顔につながるんだから。さて結構面白い話をしたな。怒りも収まったよ。それじゃあまた、ご安全に。」
B 「ありがとう。ご安全に。」