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第61回「なおこたりそね」

 「八面六臂(はちめんろっぴ)」という言葉があります。「八つの顔と六つの腕を持つ仏像」を表しますが、転じて「一人で何人分もの働きをし、多方面で大活躍すること」を意味します。ただ、これまでに各地の仏像を拝観してきましたけれども、未だかつて「八つの顔と六つの腕を持つ仏像」を見たことはありません。「奈良の興福寺にある有名な国宝・阿修羅像は『三つの顔と六つの腕を持つ仏像』だしなあ」などと思っていたら、何と「三面六臂」という言葉もあるそうで、元々はこちらの方が先にあった四字熟語なのですが、それのさらに上を行くほど多才で縦横無尽に活動する様を表現するものとして「八面六臂」という言葉が生まれたというのです。かの聖徳太子には一度に10人以上の人々の話を聞き分けたという逸話も残されているように、世の中には、あらゆる方向に向かって、またあらゆる人間活動の場において、自らの持てる溢れんばかりの知識技量を遺憾なく発揮し、誰もが讃嘆せざるを得ないほどの目覚ましい活躍を見せる人が一定数いるものです。休みなく精力的に活動する様はまさしく「超人的」、オールラウンドで器用に物事をこなして立派な業績を残す働きぶりはずばり「驚異的」と言ってもよいでしょう。
 それに比して不器用極まりない生き方しかできない自分なんぞからすれば、「八面六臂」も「三面六臂」も全く縁遠い世界のお話にしか感じられません。「今日も明日も明後日も、あれもこれも」どころか「今、これ一筋にて」なのです。「忙中閑あり」どころか「閑中忙あり」程度の日々を過ごすのに精一杯の凡夫からすると、世間様からしてみればつまらぬ些事に過ぎない事柄も全宇宙一の大問題に見えてしまいますし、ほんの瞬きするうちに処理できて当たり前のことも全人生をかけてこねくり回す対象としてしか感じ取れないものなのです。加えて、何事に臨むにせよ、手元、足元、頭上、周囲をよくよく確認した上で、自分の目の届くところ、身の丈を超えぬところを「射程範囲」として徒手空拳、シャカリキになって悪戦苦闘するのが関の山で、言い方を変えれば「キャパ一杯」という訳です。「一気に飛躍、急成長」とか「時流の最先端のさらに先を行く」といった夢のような世界からは程遠いところに生息する亀のようなもので、歩み方もそれの如しです。情けないやら、お恥ずかしいやらで、汗顔の至り、恐縮至極なのですが、「まあ人それぞれですから」と言ってしまえばそれでお仕舞になりましょうか。
 無論そうは言っても、上述の「八面六臂」にして進取果敢、常にチャレンジ精神をもって多方面に新たな境地を開き続けるということと、「亀の歩み」でひとつの道にこだわり、それを愚直に追求するということとは、それらを同時に行なえるだけの時間と力量があるのならば、本来的には必ずしも対立したり矛盾したりするものではありません。しかし、現実の人間の能力は有限で、与えられた資源や時間にも限りがあり、大体がどちらかのスタイルに軸足を置かざるを得なくなります。ただ、どちらのスタイルにあっても、過去の経緯、現在の状況、将来の変化に無関心を決め込むことはできず、その意味でそれらの関係は、二者択一的というよりも程度問題として解釈されるべきなのでしょうか。
 ところで、こうしたスタイル、つまり行動様式は、「結果」をもって評価される傾向が強いものです。つまり、「八面六臂」スタイルにおいては、結果が良ければ、「高感度のアンテナを幾重にも張り巡らすことにより、いかなる時も事態の変移を見逃さず的確に把握し、臆することなく矢継ぎ早に未知の荒野を開拓するとともに、積極的に試みた種まきの結果、見事な『変身』と『上昇』という収穫を得ることに成功した」と激賞され、その溌溂として颯爽たる姿には惜しみない拍手が送られることでしょう。ところが結果が悪ければ、「美しい山頂や心地よい新風に心を奪われてしまって足元の危険に気付かず、体勢を崩して『虻蜂取らず』の大損失を招いてしまっただけでなく、変化こそが絶対善と考えて慌てふためき、やみくもにエネルギーを消費してしまったために、浮き草の如き姿態を露呈してしまった」などと酷評されることになります。
 他方、ひとつの道を究めんと一筋に尽力する「亀の歩み」スタイルにしても、結果さえ良ければ、「脇目も振らず一途に取り組もうとする揺るがぬ信念が、着実に成果を生み、確固たる地歩を築くことに寄与した」とか「その歩みは安定し、言動には一切『けれんみ』がなく、姿容たるや泰然自若、誠に堂々としたものである」などと肯定的に評価されるでしょうが、逆に結果が悪ければ、「世の潮流の変化、時代の遷移、発想の変容に全く感応せず、むしろ意識的に目を瞑り、変転の恐怖から逃れて現状維持に汲々とした挙げ句、環境に適応できずに衰弱してしまった愚か者である」といった具合に散々に批判され、否定的評価を突き付けられるのです。
 難しいことに、どちらのスタイルも時に正解となり、時に間違いとなるのです。どちらかが常に正解であったり間違いであったりする訳ではないが故に、いずれを選択すべきかが大変な難題に思われ、実に悩ましくて困り果ててしまいます。あれこれ思案の上、自ら進むべき道を選んだとしても、絶対の自信など誰にもないでしょう。正解の確率が少しでも高い方を選ぶのか、それとも敢えて低い方を選ぶのか……後者はまさに「博打打」と同じで、当たれば「強運のチャレンジャー」ですが、外れれば「浅慮の道楽者」と貶されます。これはとても褒められたものではありませんし、「はした」で済まぬことが世の常である以上、どうやらここは「危うきに近寄らず」と構えるべきなのでしょう。
 いずれにしても悩ましい。悩ましい時には、先人の知恵に学ぶのが最良です。先人の声に耳を傾けると何かが聞こえてきます。「亀の甲より年の功」で、彼らの発言は相当に深く、重いものです。すべてその通りに真似して動く必要はありませんけれども、悩める者にとって頼れる道標になることは間違いありません。
 国学者の本居宣長は、35年の歳月をかけ心力を尽くして『古事記伝』を書き上げるという大業を成し遂げた人物で、全国には多数の門人がいました。門人達からすれば、尊敬する宣長先生のように、日本文学や日本の「道」の研究に没頭し、立派な業績を残したいと願うのは当然のことだったでしょう。彼らの中には、何にも優先して学問一筋に打ち込むことが至上命題で、たとえ家族や他人に迷惑をかけたり面倒を見てもらうことがあったとしても、学究こそ使命なのだから致し方ないとまで考える者もいました。松坂在住の門人・村上円方(むらかみまとかた)もそうしたひとりです。宣長さんの養子・本居大平の回想によれば、ある日のこと円方は、高い志と強い決意をもって宣長先生(当時71歳)のもとを訪れ、「これから学問の道を究めるにあたっての道標になる考え方をご教示ください」と請い願いました。宣長さんは数日熟慮した上で、次のような歌を詠み与えたのです。
 「家の業(なり) なおこたりそね みやひをの 書(ふみ)はよむとも 歌はよむ共」
 ここで言う「みやひを(雅び男)」とは、「風流を好む者」とかその道を「好んで学ぶ者」とかいった意味です。歌意を意訳すると、「風流を好み、学問をする人が、どれだけ本を読んだり歌を詠んだりするにしても、決して家業を怠って疎かにはしないでもらいたい」となりましょうか。……学問をすることは立派だが、家業そっちのけや家業放棄は許されず、ましてや妻子親族に迷惑と心配をかけたり、貧窮のどん底に陥れるようなことは論外である。外国ではそんなことまでして出世した者がいると聞くが「かたはらいたし(みっともない)」。そんな生き方は格好悪く、道理にも合わない。勿論、家業に精を出していては、不本意にも「ただ普通に真面目な学問好き」程度で終わってしまうのではないかと心配にはなろうが、家業をしっかりとこなしてこそ、学問も優れた業績を残せるというのが本当のところなのだ。そもそも学問は、その人自身から発せられる光のように、また心中から漂ってくる香りのように、日常生活を通して伝わってくる様子こそ美しく奥ゆかしいのだ。……宣長さんのそんな思いが感じられます。宣長さん自身は小児科医を家業とし、どれだけ研究や講義が忙しくとも患者の診察治療を優先しました。またその医業に真摯に取り組むことで家族を養い、生活を維持していたのです。宣長さんは「よき学究たる前に、日々懸命に生活するよき社会人たれ」と円方を叱咤激励したのです。
 上述の歌における「家業」を、これまで生活基盤を支えてきた「本業」、生きざまにおける「本分」、核心となる目的としての「本旨」、本末関係の「本(もと)」、辺縁に対する「中心」、応用に対する「基本」などと言い換えてもよいでしょう。さらに、「みやひを」を「考え行動する人」として、また「書」や「歌」を「他の事」として捉えなおすとわかりやすくなります。つまり、他のどんなことに関心を持ったり、心を奪われたり、熱中したり、時間と金を費やそうとするにしても、本業、本分、本旨、本、中心、基本をないがしろにしてはならない、ということがはっきりするはずです。派手さもなく、一見「光輝」とは程遠い地味で地道なことのように思えても、先ずそうした肝心要のところを避けずにしっかりと押さえて身に付けることが最優先なのです。当然ながら、目立って華々しく、斬新この上ない新風も、それが時とともに移ろいやすいからと言って、完全に遠ざけられるものではありませんし、応用と展開の先にあるものが全く無価値で不要ということでもないのです。しかし忘れてならないのは、「重要性」の観点から、さらには物事を本当の意味で成就させるためには、「事の順序(プライオリティ)」を決して間違えてはならないということ、この一点に尽きるのです。
 こうして考えてくると、今自分が何を為すべきか、どちらに向かって歩むべきかを見定めるための大きなヒントが得られたような気がします。飽くまでもヒントで、絶対的な解を提供してくれるものではありませんが、まるで目隠ししながら大草原を歩き回って針1本を探しているかのような人間にとっては、何ともありがたい「導き」なのです。
 宣長さんが円方に与えたアドヴァイスは、まさしく時と所を超え、また職業を超えて響き伝わってきています。今を生きる者にひとつの「あり方」を示してくれる至言であると思われてなりません。不器用な自分としても、自らの心に深く刻み込み、永く記しておくことにします。
 さあ、いよいよ当社第70期はスタートしました。
それぞれに立てた目標を達成するために、リスクの最小化に努めるとともに、本来為すべきことを必ず為し、しつこく、しぶとく、最後の最後まで諦めない姿勢で日々の職務に邁進していきましょう。
 それには何と言っても健康管理が不可欠です。心と体の健康維持に配慮し、全員の総合力をもって着実に仕事を仕上げていきましょう。ご安全に。

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