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第65回「一番はじめは」

 「一番はじめは一の宮、二また日光中禅寺、三また佐倉の宗五郎(そうごろう)、四また信濃の善光寺、五つ出雲の大社(おおやしろ)、六つ村々鎮守様、七つ成田の不動様、八つ大和の法隆寺、九つ高野の弘法様、十(とお)で東京心願寺」。これは明治期から各地方の子供達によって歌われてきた「童歌(わらべうた)」のひとつです。特に少女達が「まりつき遊び」をする時に歌われた「手毬唄(てまりうた)」に分類されています。歌詞に登場するのは、語呂合わせということもありますが、いずれも霊験あらたかでご利益があり、世の人々の信仰を集めている由緒正しい寺社、また厚い尊敬の対象となっている人物ばかりで、ありがたさに満ち満ちた、何とも縁起のよい内容となっています。
 町田嘉章・浅野建二編『わらべうた』(昭和37年 岩波書店)によれば、この歌は愛知県岡崎地方の歌として紹介されていますが、広く全国で愛唱されている歌でもあり、その起源は、江戸時代後期の文化文政時代、つまり町人文化爛熟の頃にまで遡れるようです。歌詞について言えば、その土地土地でバリエーションがあり、例えば「一の宮」が「宇都宮」、「中禅寺」が「東照宮」、「佐倉の宗五郎」が「讃岐の琴平さん」(香川県・金刀比羅宮)、「大和の法隆寺」が「八幡(やわた)の八幡宮」(京都府・石清水八幡宮)などと変えられて歌われる地方もあるとされます。(ついでに、歌詞の出だし「一番はじめは」の漢字表記を「一番始めは」としたり「一番初めは」としたりする例が混在していますが、趣旨からしてどちらも正解だと思います。)この歌は多くの学者によって分析されていますので、それをなぞっても仕方ないのですけれども、自分なりに少し関心があるので、歌詞に登場する寺社や人物についてひとつひとつ見ていくことにします。
 「一番はじめは一の宮」。一の宮とは、昔その地方の国司が最初に巡回した神社であったとか、全国の神社連絡網のうち、その地方で最初に布告や情報が伝達された神社であったとか言われています。本当のところ、いつ、どのような理由で始まった制度なのかは不明です。ただ、一の宮である神社はどれも高い社格を誇ります。愛知県で言えば、尾張国一の宮は一宮の真清田神社、三河国一の宮は豊川の砥鹿神社になります。一の宮があるということは、二の宮、三の宮もあるのかということになりますが、地方によっては存在します。ちなみに、尾張国二の宮は犬山の大縣神社、三の宮は名古屋の熱田神宮(ただし、当地方では別格の神社です。)、三河国二の宮は知立の知立神社、三の宮は豊田の猿投神社です。何の宮であれ、諸国それぞれで尊崇されている神社に違いありません。
 「二また日光中禅寺」。この「また」は並列を表すとともに歌のリズムを整える語です。日光は東照宮、二荒山神社、輪王寺が有名ですが、湖畔にある中禅寺はその輪王寺の別院で、天台宗の寺院です。諸願成就のご利益がある「立木観音」(十一面千手観世音菩薩)像をご本尊とします。
 「三また佐倉の宗五郎」。ここで個人名が出てきます。彼は本名を木内惣五郎と言い、江戸時代前期に下総国(現在の千葉県北部)の佐倉藩の名主でした。領主による重税に苦しむ庶民のために、時の四代将軍家綱に直訴しました。訴えは聞き入れられたものの、宗五郎とその家族全員は処刑されたのでした。故に彼は「義民」とされ、全国各所で祀られました。千葉県成田にある真言宗・東勝寺には宗吾霊堂があり、人々の健康と幸福のために加持祈祷が行われています。
 「四また信濃の善光寺」。長野県にある有名な無宗派の大寺院です。ご本尊は日本最古の一光三尊阿弥陀如来像で、絶対秘仏です。7年に一度御開帳となるのは「前立本尊」というご本尊の「分身」なのです。1400年以上の歴史があり、時の権力者だけでなく、重源、法然、親鸞、一遍などにも縁が深いお寺です。「遠くとも一度は参れ善光寺」。伊勢神宮と同じく、一回は参詣してみたいと誰もが思う寺院でしょう。
 「五つ出雲の大社」。島根県にある、縁結びで有名な神社です。日本神話によると、国津神の大国主神が天津神に豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに。つまり地上世界)を譲る条件として建立され、そこに大国主神自らがお隠れになったとされます。本殿は豪壮な巨大木造建築で、拝殿の大注連縄も立派です。「平成の大遷宮」の際に訪れ、本殿内部の天井に描かれた「八雲」を拝見しましたが、雲は七つしか確認できず、それがまた謎のひとつとして語られています。近くの古代出雲歴史博物館に立ち寄れば、出雲と大社について多くを学ぶことができるでしょう。
 「六つ村々鎮守様」。どの地域にも、そこを守ってくれる神様がいらっしゃり、鎮守社があります。最も身近な神社で、時に氏神様と重なることもあるようです。
 「七つ成田の不動様」。千葉県の成田にある真言宗・成田山新勝寺のご本尊は不動明王です。人々は御護摩祈祷により諸願成就を願います。全国に別院があり、我々が正月などに参詣する犬山の成田山は名古屋別院で大聖寺と言います。護摩行の炎を見つめていると法力により人間の煩悩が照らし出され、焼き尽くされていくように感じられてなりません。
 「八つ大和の法隆寺」。7世紀初頭、現在の奈良県斑鳩に聖徳太子こと厩戸皇子が建立したとされます。多くを語るまでもない、超有名な寺院です。「法隆寺再建・非再建論争」とか梅原猛の『隠された十字架』などを読むと、古代史のミステリアスな魅力に引き込まれていきます。
 「九つ高野の弘法様」。和歌山県にある真言宗の総本山、高野山・金剛峯寺は弘法大師・空海が開創した真言密教の聖地です。弘法様信仰は全国に広がっており、特に四国八十八カ所巡りのお遍路さんは常に弘法様とともに歩んでいるとされます。「同行二人」です。
 「十で東京心願寺」。この心願寺とはどこの寺のことを言うのか諸説あります。本願寺か、泉岳寺か、いや招魂社(靖国神社)のことではないか……。当時の時代背景からして、人々は出征兵士の武運長久と無事帰還を必死で祈っていたのでしょう。身内にも戦地に赴いたり、そこに倒れた人がいる家庭が多かったことと察せられます。
 ところで、この童歌には続きの歌詞があります。「これほど心願かけたのに、浪子の病は治らない、ごうごうと鳴る汽車は、武男と浪子の別れ汽車、二度と逢えない汽車の窓、泣いて血を吐く不如帰(ほととぎす)、武男が戦争に行くときは、白い白い真白い、ハンカチ振り振りねえあなた、早く帰ってちょうだいな」。内容からすると、とても童歌・手毬唄のそれとは思えません。どうやら当時多くの人々に読まれていた徳富蘆花『不如帰』が舞台化までされて相当人気を博していたため、少し「ませた」女性が元々の歌詞に後から付け加えたのだと考えられています。相思相愛の川島武男と片岡浪子は、戦争と結核病、それと複雑困難な人間模様に翻弄されて、不本意ながらも離縁させられ、武男は戦地へ赴き、浪子は病のうちに生涯を終える……どんなに祈ったところで結局こんな不幸な結末だった、というストーリー仕立てで、純朴な子供の手毬唄を妙にドロドロした暗いトーンへと変調させてしまった訳です。私に言わせれば、やはり後半の後付け歌詞は不要です。前半と後半は明らかに不整合です。純粋に子供達が口ずさむ歌、その歌詞としては「十で東京心願寺」までで十分完結できます。前半を鑑賞するだけで、素朴で飾り気のない庶民の姿が伝わってくるではありませんか。
 童歌とはそういうものですし、そうあって然るべきでしょう。勿論、時代とともに子供達のある種のスタイルは変容しますし、求めるもの、欲するもの、願うものも同様でしょう。しかし、何かを求め、また求められるものがあるという構図はいつであれ存在します。現代では求め方そのものが複雑になり、万事ストレートに表現することをよしとせず、理屈で装飾し、一見もっともらしい言い訳を付して表明しなければならないという悪しきムードが漂っていますが、いついかなる時も、何事かを真剣に求めようとする心持ちそのものは消え入っていないと考えたいものです。
 童歌といえども、そこには両親や祖父母、先祖代々からの言い伝え、風習文化、思い、祈りが如実に反映されています。それを子供達は、たとえ意味がわからなくとも、先ず言葉を音として、またメロディーやリズムとして感受し、繰り返し繰り返し口ずさむ中で、しっかりと記憶していくのです。そうして、それらの思い等々が子供達の心に沁み込んでいき、血肉と化していくことになります。成長して自我が芽生え、様々な事柄の意味や真実が分別できるようになった時、童歌の歌詞はもう一層深い意味を持つように感じられることになるでしょう。その上で、歌詞に込められた本当の思いを意識的にか無意識的にか次なる世代へ伝えていくことになるはずです。
 前から受け継ぎ、後へつなげる。つなげられた子供達は、その心の奥底に大切なことをしっかりと刻み込む。「三つ子の魂百まで」と言います。童歌を巡るこの一連の流れに見られる伝承は、過去による呪縛というよりも、健全な成長と捉えたいところです。
 恩師の言葉は、ほんの何気ない一言であっても、教え子達のその後の人生を大きく左右することがあるものです。やはり、あらゆる言葉は、子供達の心の深奥にまで到達し、瞬く間に小さな反応を、将来には大きな変化をもたらす反応を引き起こすのでしょう。童歌もまた然り。平凡な日常の、ささやかな遊びのうちにも、人生の真実が見え隠れしているようです。
 一番はじめから十まで。まだ訪れたことのないところもあります。それこそ童心に返り、色眼鏡を外して、素直に往時をしのび、境内を散策してみたいものです。懐かしい童歌を口ずさんで……。
 日常生活に閉塞感を覚えつつも、懸命に日々を過ごし、諸問題を乗り越えていくのは生半なことではありません。そんな難行苦行を繰り返すうちに、令和3年も残すところあと1ヵ月となりました。
 1年経つのは本当に早いものですが、これから一層時間の経過速度は加速していくように感じられることになるでしょう。そのせわしなさに追われて、あらゆる仕事にとって不可欠の「基本」を置き去りにしないようにしなければなりません。基本なくして応用なく、基礎なくして竣工なし。後悔のないよう、押さえるべきところは必ず押さえて、不安感のない仕事を心がけましょう。
 冬を迎えるにあたり、小さな体調の異変に注意してください。「病は仰山にしろ」。大袈裟なくらいに心配して健康管理せよということです。皆でこのことに留意して、安心・安全で、しかも信用と信頼を得られる「ものづくり」に取り組んでいきましょう。ご安全に。

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