IWABEメッセージ
第78回「オセロ」
「オセロ」と言っても、シェイクスピアの悲劇作品のことではありません。2人で対戦するボードゲームのそれです。8列×8列のマスで仕切られた盤の上に、表裏を白黒に色付けられた円盤状の石を置き、対戦相手の石を挟んだり、逆に挟まれたりしながら、白が黒になり、黒が白になりを繰り返して、最終的にどちらの色の石が多かったかで勝敗を決めるというルールです。もう今更くどくどと説明する必要もないでしょう。ある意味とてもわかり易いルール、ゲーム進行であるが故に、子供から大人まで幅広い世代に親しまれている「ポピュラーな」ボードゲームなのです。元来は「リバーシ」という名前であったそうですが、日本では「オセロ」という呼び名が一般的です。シンプルなゲームではあるものの、存外奥が深く、次の一手をひねり出すのに長考してしまうこともしばしばです。楽しくもあり、時に悩ましくもあり、易しくもあり、また難しくもあり……。まるで「オセロ」の石が白と黒の2色を同時に持ち合わせているように、2つの異なる特徴が併存するゲームであると言えます。ずばり「人生ゲーム」という名前のゲーム商品もありますけれども、「オセロ」もまた人生模様そのものが映し出されるような展開が見られるゲームなのです。
近所の薬局で貯めていたポイントを使って「オセロ」ゲームと交換したのはもう大分昔の話で、少し遊んだだけで押入れの奥へとしまわれていたものを、何の拍子にか中学生の娘が引っ張り出してきて妻と対戦していました。どうやら妻は強敵らしく、娘としてはなかなか勝利を得られず、相当悔しがっている様子です。私も岡目八目であれこれ「評論」してばかりいてはつまらないので、「それでは選手交代と参りますか」とばかりに娘との対戦を開始しました。結論的に言えば私の連戦連勝で、少々大人気ないとは思いつつも、「やはり亀の甲より年の劫だな」などと妙に納得して満足していた次第。その分、娘の悔しがり指数も上昇し、その後何度も「リベンジ戦」を挑まれたのでした。当然のこと、子供相手とは言え、勝利を収めれば気分がよくなりますから、その気分を持続させるためには、まかり間違っても「妻対私」戦なんぞはあり得ないカードだった訳です。
さて、それから「リベンジ戦」が繰り返されているうち、ある時状況に変化が現れました。私が負けたのです。「まあ、たまには負けてやらないとな」などと笑いつつも、「それじゃあ、もう1回戦やろうか」とこちらから提案。今度は少し慎重になりながら、一手また一手と打っていきます。「万全を期して……」と臨みましたが、また私が負けました。うん?何かおかしいぞ!「もう1回!」と対戦してみたものの、またまた負けを喫しました。ああ、そうか、今日は仕事で疲れているから頭がうまく回転していないんだな……そういう変な言い訳を考えて、その日の「オセロ」はゲーム終了。しかし、それでは私の方が面白くありません。何だか中途半端な心境に置かれ、何をするにも意識を集中できませんし、どんな会話も上の空になってしまいます。そんなにショックだったのかと言われれば、それは確かにその通りで、連戦連勝が連戦連敗に一転してしまったのですから、何やら大きな「節目」のようなものに直面した気持ちになったとしても不思議ではないでしょう。その後しばらくしてから改めて対戦してみたのですが、連敗記録は更新され続ける一方でした。もはや私には焦慮よりも諦念の方が湧いてきてしまったぐらいで、全くもって情けない仕儀と相成りました。
それにしても、どうして連戦連敗するようになってしまったのでしょうか。私の気が緩んでいたのでしょうか。それとも能力の衰えが加速し始めたのでしょうか。はたまた単なる練習不足なのでしょうか。あるいは、それらの複合的理由によるのでしょうか。娘からは「石の打ち方が単調だ」とのコメントまで頂戴しているので、もしかしたら子供でもすぐに追い越せるほどの実力しか持ち合わせていなかったのかもしれません。それに子供の学習能力なるものには往々にして目覚ましい成長が見られるものです。次から次へと新しい知識やら技術やらを会得していきます。まるで乾いた砂が水を一瞬のうちに吸い込んでいくようですらあります。勿論、得られた知識・技術は、その向上のためにある種の熟成が要されましょうし、そのためには一定の時間が不可欠となるでしょう。その時間を経て初めて、量的にも質的にも相当の変化を遂げた知識・技術の総体を自らの内に持ち得るようになるのだと思われます。別の言い方をすると、スピードと効率性に偏重するのではない、深みと重み、さらには趣(おもむき)を兼ね備えた思考と技芸の競演が見られる段階へと進めるということになりましょうか。とするならば、子どもの著しい成長の前に敗れ去った老兵の悲哀が、やり切れぬ愚痴という形をとって今語られているということになってしまうのかもしれません。「亀の甲より年の劫」、それはそれで十分意味はあるものの、よろずの帰結に対して常にその理由になるとは限らないようです。
さはさりながら、ここで観念してしまってはいけません。昨今では、例えば将棋の羽生善治さんや藤井聡太さんなども、コンピューター・ソフトを使って日々研究しているというではないか、それなら私もコンピューター相手に練習してみよう……と一念発起し、暇を見つけては「人工知能」相手にパチパチという効果音に包まれながら「オセロ」ゲームの石を置き始めました。初級者編から上級者編まで難易度は様々あれど、厳しい修業をするためには、いつまでも初級者編に甘んじていてはなりません。鍛錬、鍛錬、また鍛錬……。宮本武蔵は『五輪書』「水の巻」の中で「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」と記しています。千日か万日か、とにもかくにも「オセロ」ゲームの画面とにらみ合いです。果たして上達しているのでしょうか。結果は、いずれまた訪れる対戦の日に判明することでしょう。
ところで、家族と対戦したり、画面上で「人工知能」と石を置き合ったりしていると、「オセロ」ゲームを通して色々なことを考えさせられます。冒頭にも述べたように、「オセロ」ゲームには人生模様そのものが映し出されているように感じられて仕方ないのです。
先ず、白側であれ黒側であれ、どちらも使用できる石の数は同じです。この点については、「初期配分」が同じという意味で、実社会に比して非現実的なのかもしれません。それはそれとして、対戦者それぞれが持てるゲーム能力・実力には差があります。差がある中で同じ盤上において戦わなければならないのです。あらゆるボードゲームにあてはまることですし、現実社会における学校や会社でも似たような状況に置かれるのが常でしょう。差があっても、持てる能力を可能な限り発揮できるように努力・工夫することになります。(もっとも、その差を極力小さくしようとする対策、つまり「ハンデ」対応の問題が出てくるのは何処も同じです。実際のところ「何が平等か」という議論がエンドレスに続く中にあっても、差に関する一定の判断と何らかの対処がなされています。その対処が誰からも満足してもらえる内容になることは誠に至難であると言わざるを得ません。)
「オセロ」ゲームの対戦は、最後には白と黒のどちらの石の数が多いかで勝敗を決めますけれども、公式ルール上は「投了」が認められているとは言え、一応は盤上のマス目にすべて石が置かれ、それこそ白黒決着がつくまで続けられます。娘と対戦していて、どう考えたところで負けることが分かった場合に「もうここまでにしよう」と提案しても即時却下されるのですが、こうしたことは対戦上のルールというよりもマナーに関わる事柄なのかもしれません。このルールとマナーに依って石を置き、盤の全体を眺め、何手も先を読みます。逆に局所の状勢にのみ意識を集中したり、目先の石の大量獲得(白黒反転)につられて浅慮の一手を打ってしまうと、それが大敗への道へとつながる結果になることもあります。敵もさる者、密かにあちこちに罠を仕掛けていますから、軽率・短慮に起因してその罠にまんまと引っかかろうものなら、対戦相手は心中でニタリとほくそ笑むことでしょう。全体の俯瞰と局所の凝視を交互に繰り返し、罠という危険を極力避けて、自らの一手を打つ。蛮勇や博打打的衝動は、連発・連続しても、決してよい結果には結びつかないものです。
あとは何と言っても角(かど)を取ることです。角は一度取ると白黒反転しませんから、強力な1マスになります。故に誰でも角の獲得を目指すのです。ただ、角を取ったからといって、もっと言えば複数の角を取ったからといって、絶対に勝てるという訳でもありません。角と角の間のマスにどのように石を置くかによって、角の意味や効果が全く変わってきます。また、角を押さえる以上に、時に角と角の間の対角線を固める方が強力な布陣となる場合もあります。「人工知能」はこの対角線固めが上手く、あちこち目が移っているうち、あっと言う間に対角線が一色に染められてしまいます。こうなるともう身動きは取れず、対角線を切ろうにも石を打つ所がありません。外堀を埋めてから、一挙に本丸攻撃を仕掛けてくるのです。恐るべし、「人工知能」の深謀遠慮!反対に、そこまで読めていない自らの未熟さよ!何事においても、それを絶対と妄信し、周囲への注意や他の選択肢の考慮を排してしまったり、思い込みや決めつけによってその先の思考の一切を遮断してしまうことは、極めて危険な行為だという一例なのでしょう。そこには、仮に結果的に当初想定した行動と同じ行動を取ることになるとしても、前提として一通り見直し・再確認した上で一応の納得をするというプロセスが必要だということも含意されています。「当たり前」、「常識」、「慣例」という言葉に寄りかかって、それを無反省に受容するということは、裏を返せば、すべての結果責任を自分自身ではなく、それらの言葉に負わせることにつながりかねません。要するに「主体的によく考えよ」ということに尽きるのでしょう。
しかしながら、難しい理屈をこねているだけでは「オセロ」ゲームは強くなりません。理屈は「鍛」と「錬」があって初めて生きてくると捉えるべきでしょうか。そうすると、娘に勝てるのは千日後か、万日後か……道のりは長そうです。
令和4年。今年は皆さんにとってどんな1年だったでしょうか。世界も、日本国内も、地域も、産業界も、何処においても混乱と停滞の渦中に置かれ、今もその状況が続いています。事態の好転を願うばかりですが、我々としては与えられたところの条件を受け止め、その下で様々な困難と「対戦」して成果を上げていかなければなりません。大変なことではあるものの、誰もが例外なく置かれている状況であるとすれば、あとは自身の振る舞い方次第であるように思われます。
1年を終えるということは、第71期の半期を終えるということでもあります。後半期も引き続き各人の持てる力を最大限に発揮し、その力を総合して前へと進んでいきましょう。
会社の役職員の皆様、この1年間本当にご苦労さまでした。また、ご家族の皆様には日頃より心温かいご声援を賜り、誠にありがたく、心より感謝申し上げます。
来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。よいお年を。ご安全に。