IWABEメッセージ

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第91回「本屋さん」

 このたび発生した「令和6年能登半島地震」により、お亡くなりになられた方々には謹んでお悔やみを申し上げます。また、被災された皆様には心よりお見舞いを申し上げます。
 能登、加賀、さらに広く北陸地域の一日も早い復旧・復興をお祈り申し上げます。

 

 「書籍」と言うより「本」、「書店」と言うより「本屋さん」。私にはそちらの方が何となくしっくりきます。今回は、その「本屋さん」の思い出話から始めることにします。
 以前は近所に小さな本屋さんがいくつかありました。雑誌と漫画本、それに多少の文庫本ぐらいしか置かれていない本屋さんでも、徒歩で、時には自転車で頻繁に通ったものです。学校帰りなどは、途中にある本屋さんにルーチンの如く立ち寄りました。時々ではありますが、大都会のど真ん中にあって、圧倒的な在庫数を誇りつつ鎮座まします巨大な本屋さんに出かけることもありました。勿論、大学生になったり社会人になったりすると、そうした大きな本屋さんはキャンパスや勤め先の近くにあったため、そこを訪れる機会は格段に増えたのです。本屋さん通いはもはや日課でした。
 小さな本屋さんの場合であれ、大きな本屋さんの場合であれ、本屋さんに立ち寄るのは、買いたい本が決まっている時だけでなく、特に買いたい本がある訳でもないけれども、本屋さんの棚に隙間なく並べられ、うずたかく積まれた本、その本に引き寄せられた人々、さらに本と人々によって醸し出される本屋さんの空気に触れたい時、また、その空気に包まれてあれこれ思索してみたい時、結果読んでみたくなるような本に出会えるかもしれないという微かな期待を抱く時、そんな時々であると言えましょう。それはひとつの楽しみであって、生活を無味乾燥から守ってくれる「救い」でもあります。本屋さんはまさに「心のオアシス」……それなのに、です。近所から本屋さんがなくなっていくのです。近所だけでなく全国的にも、開店する本屋さんより閉店する本屋さんの方が多いのです。(図書館についても、自治体によっては財政上の理由で設置を諦めるケースが見られます。人間にとって「知の拠点一丁目1番地」なのにとても残念な話です。ただ図書館問題は別稿にて。)閉店の理由は経営難ということなのでしょうが、本当のところはもっと根深い理由がありそうです。
 先日、ある新聞記事で「本が売れない」として、書店経営の厳しさや書店や出版社が抱える諸問題、それに対する関係者の見解が取り上げられていました。出版流通の仕組み、売れ残り本の返品、定価販売を基本とする再販制度、これらに起因する低利益率・雇用の不安定等々、それぞれの問題は相当に深刻で、あの手この手と策を繰り出しながら事態の好転を模索しているところだということなのです。加えて、昨今は「ネット書店」で本を購入する人が増えています。大変便利なことに、ネット上で本の内容、在庫状況、読者評価、関連本などを確認して注文でき、配達までにかかる日数までわかるため、ネット書店を利用する人が急増しているとしても大いに頷けるところです。それともうひとつ、「電子書籍」が増加して、紙の本に取って代わろうとしている状況も見逃せません。
 ただ、どれだけ電子書籍が普及していると言っても、それだけで紙の本の売上部数減をカバーできてはいないのです。つまり、紙の本の売上部数が減った分そっくりそのままが電子書籍の売上部数増加分に移行した訳ではないということです。これ即ち、媒体の形式は何であれ、そもそも人々はモノ(活字で書かれたもの)を読まなくなったことの証左でしょう。かつて「知の巨人」立花隆は、本を自分の「外部記憶装置」と表現して、本を読むこと、また本そのものの価値や重要性に言及しましたが、同時に、そうした価値や重要性を一顧だにしない風潮が蔓延しつつある状況に強い危機感を抱いていたはずです。モノを読むことを通じて感動したり、知識を得たり、あれこれ思い巡らして考えを深めたりするような「面倒臭いこと」は、初手から興味関心の埒外に放置されてしまうような現状を目の当たりにすれば、「知の巨人」でなくとも人間社会文化の行く末に不安を感じて当然だと思うのですが、この種の危機感や不安感は広く共有されるまでには至っていないようです。繰り返しになりますが、本屋さんという実店舗がネット書店に、紙の本が電子書籍に主役の座を奪われることが本質的問題ではなく、本であれ、新聞であれ、通達文書であれ、人間が文字を目で追い、頭の中で言葉を咀嚼し、思考を形づくるという営みから離れつつある、いや積極的に敬遠すらしつつあるという状況こそが本当の大問題なのです。「本が売れない」、「図書館を訪れる人が減少する」、これらの現象の根本原因は恐らくのところそこら辺りにあるのでしょう。少し言い方を変えるならば、文字、それ以前に言葉そのものの意味にも、その持つ力にも関心を持たず、言葉へのこだわりを結果として放棄してしまうことに起因するのです。特に注意すべきは、この危機的な事態が実は平然かつ静かに、じわじわと進行していくものであるという点です。
 言葉に対するそうした態度は、当然のこと文字に対しても、文学に対しても、もっと広く文化に対しても、結果「無関心を決め込む」、少なくとも「浅くて弱い興味を感じる」程度のことに繋がっていくような気がしてなりません。「生成AIに任せておけば、人間なんぞ寝ていてもよい」とまでは考えていないでしょうが、不完全であれ主体的に行動することにこそ意義のある人間が、万事受け身になり(何者かに統制され)、言葉に無関心・無感覚となってしまった姿を想像するだけで空恐ろしくなります。なるほど「人間社会はそういう段階に入ったのだから、それでよいではないか」という声も聞こえてきそうです。しかし私は、そうした声に向かって「それではいけないのだ!」と声高に叫びたい心境になるのです。
 「読む」ことですらこの有り様ですから、「書く」ともなると何をか言わんやです。「読む」は「見る」よりも難しく、「書く」は「読む」より難しい。「書く」ということは、自分の思いなり考えなりを、それまでに習得した言葉と表現力を駆使して何とか文字を通じて表現しようとすることで、自力でひねり出すということにおいては相当厄介で骨の折れる作業だと言えます。大作家ですら、最初の1行目を書くのに何カ月もかかってしまうことすらあるほどです。この「書く」においても、手書きによることが少なくなり、パソコン入力での作成が相当に普及しています。特にビジネス文書ではそれが当然になっていますし、「手紙」ではなく「メール」が多用されている現実もあります。確かに、使わなくてもよい漢字を多用したり、同音異義語を間違えて使用したりすることもありますが、それはご愛嬌と捉えるにしても、「書く」手段や方法に関係なく、とにかく文章を書く機会そのものが減少してきました。機会が減ったのか、機会を避けているのかは別として、「読む」のと同じく「書く」方も、それを繰り返し何度でも根気強く続けていかなければ、作法も技法も身に付きにくく、処理スピードも向上しないでしょうに、ここでも「言葉からの離隔」が見られるのです。ただ考えてみれば、「読む」から離れているのに「書く」だけ熱心になって習熟しようなどという目論見は、元々が不可能なことなのだと断ぜざるを得ません。形式(手法)に関係なく、先ずは「読む」、その上で「書く」ことが極めて大切なのです。
 但し、以前にも触れてきたのでもはやおわかりでしょうが、私自身は本屋さん派、紙派、手書き派です。ネット書店を利用しますし、パソコンを使って文章も作成します。それでも本当は本屋さん派、紙派、手書き派なのです。飽くまで自分の主観ですけれども、人間性は「アナログ」(「デジタル」に対する意味だけでなく、当代風から取り残された「アナクロ」という意味も含める)の中に宿ると思います。同じ「読む」でも深く読むには紙の本が、余すことなく思いの丈を伝えるには手書きの文章の方が一層適しているでしょうし、それによってこそ人間の主体性や能動性、つまり特殊人間固有の本性が発露するに違いありません。人間の営みに係る価値の重さや意義深さは「アナログ」世界でしか十分には表現できず、また知り得ないものなのでしょう。紙の本の優越性については従前記しましたが、手書きの文章について言えば、元々文章そのものは形式を問わずしっかりと読み込めば意味を理解できるものながら、手書きであって初めて、書き手の置かれている状況、熱意、思いの強さ等がわかるものです。手書き文字を一読しただけで、そこに書き手の「素の心持ち」が見え隠れしているのがわかります。手書きが無礼とはならない場合や特別にフォーマルなものを求められない場合は、時間と気力の許す限り手書きが最良と考えてよいでしょう。
 指揮者・岩城宏之の著書『楽譜の風景』(昭和58年 岩波書店)には「作曲家の筆跡」という面白い話が出てきます。彼は黛敏郎作曲の『涅槃交響曲』を世界初演した際には黛による手書きの「自筆楽譜」を使用したので上手く指揮することができ、演奏も上出来だったのに、その後の再演時には印刷出版された楽譜を使用したため、非常に指揮がしにくくなり、曲の内面を掘り下げるどころかミスを防ぐのに精一杯だった、というのです。何故そんなことになったのか。黛の「自筆楽譜」は美しくはないものの訥々とした筆致で素朴、正確無比であり、そこからは音が感じられ、作曲家のパーソナリティーが伝わってくるものであったのに対して、出版楽譜からはそれらを感知できなかったからです。オリジナル・スコアの筆跡には作曲家の生きざまが響く「音なき音」が宿るのでしょう。「人間が書いたものを人間が演奏し、多くの人々が聴く、という現在の音楽の成り立ちが続く限り」音が感じられる楽譜が作られなければならない……岩城の率直な思いです。手書きの文章にも通じる話ではないでしょうか。
 効率よく小ぎれいにまとまっていれば事足りるのが当世風だと強がったところで、それは自分が「読む」と「書く」から、つまり言葉の世界から遠ざかっている現状への言い訳に過ぎません。しかし同時に大変な事態が惹き起こされていることに気付くべきです。本は泣き、言葉は嘆いています。何故に泣き、嘆くのか。それは、人間が「読む」「書く」を文化文明の核心から外し、その結果、文化文明の衰退・衰滅までを招こうとしてしまっている状況を直視した本や言葉の側から無言の警告を発し続けているにも拘らず、当の人間自身が意識的にか無意識的にか全く反応を示そうとしないからでしょう。この無反応や無関心は、人間的なもの、つまり人間性の喪失に直結します。人間の自己否定と同じです。そうなるか否か、今まさに瀬戸際なのです。
 言葉に触れ、言葉を考え、言葉で等身大の自分を表現してみる。これに尽きます。
 さて、年が明け、今期も後半戦がスタートしています。
 今年の干支は「甲辰(きのえたつ)」です。万事勢いを増し、動きが盛んになる「成長の年」であると言われます。仕事の上で成長するためには、基本を守り、修練を重ねる中において、様々な人々から信用と信頼を獲得し、維持し続けることが大前提となります。人とのつながりには言葉が必要で、またその言葉を実践して形にしてみせることも不可欠です。言葉を大切にし、誠実に仕事に向き合って、一歩ずつ成長のプロセスを踏んでいきましょう。
 何事にも近道はなし。地道な一歩が大輪の花を咲かせます。今年も皆の力を総合して花を咲かせましょう。よろしくお願いします。ご安全に。

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