IWABEメッセージ
第93回「Nさんのこと」
「元気でやってますか?私は1月末で会社を卒業します」。Nさんから届いた今年の年賀状には、懐かしい書体でそう記されていました。続けて「色々とお世話になりました」と。年賀状そのものも今年限りで「卒業」するとのことでした。私は、この年賀状を一読した時に、何とも言えぬ寂しさを覚えました。数々の思い出によって彩られた、ひとつの時の流れが、一応の区切りを迎えたように感じたのです。そこはかとない虚しさに襲われるような感覚でもあります。寂寥感に苛まれるとも表現できましょうか。勿論、Nさんはこれからも新天地で益々活躍するでしょうし、機会があれば再び会って談笑することもあるのかもしれません。ただ、そうであるとしても、人それぞれが歩むところの人生の途上には必ずある節目……それはNさんの節目であり、私にとっての節目でもある……に直面してみれば、ひとしお深く深く思いを巡らさざるを得ないのです。「もうそんな年齢になるのか」。年月とは、かくも早くに経過するものなのでしょうか。大河の流れからすれば、数十年などほんの刹那に過ぎないのかもしれませんが、その流れの中で、時に滑稽なまで懸命になって浮き身をやつすことに無理くり意義を見出そうとする人間にしてみれば、その刹那こそ、永遠にも等しい全人生であり、格別の重みを持つ大切な時間なのです。
私が社会人として出発した地は横浜だったという話には、以前にも何度か触れたことがあります。支店の内勤を経て、管内現場の事務担当者になり、バブル崩壊後の混沌とした状況をシャカリキになって乗り越えようとしていました。そんな最中に東京の本社人事部へ転勤せよとの辞令が出されました。紆余曲折があった末の急な転勤話に驚きましたが、所詮人事異動とはそういうものなのでしょう。なお驚いたことに、新しい赴任先の前任者はとっくに転勤してしまっていて東京にはいないと言うのです。既に新卒採用活動は本格化しており、そのようなところへ右も左もわからない素人同然の私が配属されても立往生して混乱を招き、部内の人々や会社に迷惑をかけてしまうことは火を見るよりも明らかです。これは困ったことになったぞ、と不安に陥っていると、付け加えてこう言われました。「前任者はいなくても、『仮引継ぎ』している人がいるから」。「仮引継ぎ」って何だ?不安が弱まったのか強まったのかよくわからないまま、ともかくも転勤の日を迎え、緊張感いっぱいに人事部に赴任したのでした。扉を開けて一歩踏み込んだ人事部のフロアは、それまでの職場とは真逆で静寂そのもの、全くの異空間でした。静粛世界に与えられた私の座席、その対面の席に座る人こそ例の「仮引継ぎ」者、私の上司にして人生の先輩、Nさんだったのです。
NさんはNさんで自分の仕事分担があり、それはそれで大忙しだったにも拘らず、「仮引継ぎ」事項を丁寧に教えてくれ、伴走してフォローしてくれました。専門用語ひとつからして全くわからない状況にあって、Nさんの存在は暗闇に見つけた光明に等しいものでした。その光明を頼りに全力投球、正面突破の正攻法で日々の仕事をこなしていたのです。巨大組織に所属する多彩な人々と協働しながら、様々な調整を繰り返した上で意思決定していくというプロセスから逸脱することなく成果を上げていく……このスタイルや作法も、Nさんを始めとする心優しき職場の皆さんに教えられた(鍛えられた)おかげで、徐々に身についていったようです。インターネットが普及する前の時代のことです。
業務内容は多岐に亘り、業務量も繁忙期ともなると相当なものになるので、終業が深更になることもざらでした。ようやく仕事に一区切りがつき、ホッと一息ついて周囲を見渡せば、フロアにはほとんど人は残っておらず、一部の区画ではもう照明が消されています。昼間の静寂を上回る静けさに疲れそのものが際立てられるような気分になりながら、窓外の景色に目を遣ると、むしろ一層明るさを増して煌々と輝いている夜の新宿が眺められました。では帰ろうか、と思った矢先、同じく残業に一区切りついたNさんから「一杯行こか!」との声が掛かります。普通なら、もうこんな遅い時間なんですから帰りましょうよ、と言うところが、どういう訳か私もすぐに「行きましょか!」と応じていました。思い返せば、週に何回かそういう日がありましたし、Nさんと知り合いの他部署の方々が合流する日もありました。「1次会」は本社ビル地下の居酒屋で、「2次会」は歌舞伎町方面のお店でと、大体からしてスタート時間が遅いのに、よく飲み歩いたものです。後年Nさんに「お前は飲みに誘っても嫌な顔をせず、断らなかったのがよかった」と言われましたが、むしろこちらの方が誘ってもらうのを待っていただけなのかもしれません。
結婚して夫婦が住むことになった年代物の社宅の敷地内には見事な桜の木が植わっていました。その桜花満開のある日、夜の10時過ぎ頃だったか、お茶を飲みながら静かに読書でもしようと寛いでいると、いきなり玄関のベルが鳴り、扉をドンドンと叩く音がしました。何事かと驚いていると、玄関の外から「おい、ワシや!おらんのか?外の桜がキレイやないか。花見しながら一杯やろか!」とNさんの関西弁、それもかなり酔っています。Nさんの自宅は別の街にあるので、どうして今時分こんなところにいるのかと不思議がっていると、またまた「おい!おらんのか?居留守か?」との声。もう風呂にも入り、寝間着に着替えてのんびりしていたので、弱り果ててしばらく鳴りを潜めていると、Nさんは上階の知人宅へと向かったようでした。「嵐」は過ぎ去りました。翌日になって上階の方に言われました。「Nさんが『アイツの家は電気が点いていた。居留守だ』と仰るものですから、『いやいや、あちらのお宅ではお出かけになる時も用心のために電気を点けたままにされているんですよ』と申しておきました。でも、ここで咲いている桜を見上げて、仲のよい方達とお酒を飲みながら語り合いたかったみたいですよ」。私は後悔しました。それでも翌日会社でNさんに会った時には「いやあ、丁度留守してまして」などと言い訳をしてしまいましたが。
Nさんは関西出身の体育会系気質。時に豪放磊落であり、時に繊細緻密、厳しさと優しさを併せ持った人でした。無類の責任感と行動力、強力なリーダーシップを備えた姿からはカリスマ性すら感じられ、当然の帰結としてあらゆる世代に広範囲の人脈が築かれていました。関西弁による軽妙洒脱な語り口は、皆の心に響いたのです。また、後輩連中の信頼は絶大でした。まさに輝いていました。私自身は、諸事「自分流」を意識しつつも、他方で新参ながらNさんの「弟子」「門下生」たることを無意識的に誇りに思っていたのでしょう。
ある日のこと、新卒採用の判定について部内で会議が開かれたことがありました。採否を覆さざるを得ない事態となったからです。既に本人へは結果通知済みでした。原則からすれば採否逆転はあり得ず、担当者たる私としては「できかねます」と答えるのが精一杯だったところ、Nさんは「わかりました。そのとおりに対処します」と即答、部長が「できるのか」と問うと、「大丈夫です。全責任は私が取ります」と再即答しました。そのあと重役が部長に「あなたはいい部下をお持ちですね」と穏やかに伝えていた光景が今でも目に浮かびます。私は只々唸るしかありませんでした。
そのNさんが、ある支店の責任ある役職に転勤してしばらく後、Nさんと私との関係にヒビが入るような「一大事件」が起こりました。原因は偏に私にあります。事の顛末はこうです。Nさんのいなくなった部内で懇親会があり、2次会になって皆で「Nさんを呼ぼう」ということになりました。私も「Nさんのことなら」と嬉々としてNさんの携帯に電話すると、Nさんはもう自宅に帰っていました。ここでいけないことに、私が少々調子に乗ってふざけたモノの言い方でNさんを呼び出そうとしてしまったのです。「親しき中にも礼儀あり」という言葉を忘れたのか!酔いのせいにはできません。大変失礼なことをしでかしてしまいました。結局Nさんは2次会のお店にまで来てくれました。しかし、かなり不機嫌そうで、体全体から怒気を発しているようでした。私は妙な殺気すら覚えました。Nさんは開口一番「オレはふざけた言い方でからかわれるのが一番嫌いで許せない」と話しました。私は「いや、そんなつもりでは」とか「すみませんでした」などと言って何度も謝ったのですが、全く許してくれません。それどころか私に対する批判はエスカレートしていったのです。その様子を見かねた私の上司(Nさんにとってもかつての上司)が「Nさん、あなたそんな言い方したら、この人との人間関係は崩れ去りますよ」と間に入ってくれました。しかし、それを受けたNさんからは驚くべき言葉が聞かれたのです。「いや、これぐらいのことで、私とコイツの関係は崩れません!」。私は心が震えました。また深く恥じ入りました。もう何も言えませんでした。頭を垂れ、目を瞑り、口を真一文字に結ぶのみでした。私は、翌朝一番に支店へ出向き、応接室でNさんに会いました。「誠に申し訳ありませんでした!」と手をつき、額を机にこすりつけるほどにして謝りました。Nさんは、微笑んで穏やかに語り出し、許してくれました。紐帯をはっきりと確認できた瞬間でした。それからさらに時間が経過し、Nさんは各地の室長、部長を歴任されました。当地方に来訪し、その時私が伊勢詣のガイド役を務めたことも思い出されます。そのNさんが、いよいよ「会社卒業」というのですから、自分の記憶と感情の回路が複雑に混線したとて、ある意味当然のことなのかもしれません。
今振り返ってみても、これまで出会った学校の先生・友人や職場の上司・同僚の中で、自分の人生に影響を与えてくれた人物が一定数いますけれども、確実にNさんはその内のひとりに入るでしょう。まさしく人生の重大事について涙ながらに相談したこともありました。独特の関西弁は、重く落ち込む私を苦悩の深淵から救い上げてくれたのです。「人師は遭い難し」。誠にそのとおりです。だからこそ、Nさんのような「ものすごい」人物に出会えたという「邂逅」を先ずは感謝しなければならないのでしょう。いくつもの偶然と必然が不可思議に重なり合って、さらに数多の人々の思いや考えが絶妙に交錯した結果の幸運なる出会いなのです。それ故に、Nさんを始めとするその時々の人師との邂逅自体が、我が人生におけるかけがえのない体験であり、学びの機会であり、従ってそれは正真正銘「財産」となり得るものに他ならないでしょう。
Nさんの次なるステージにおける活躍を心より祈ります。どうか引き続きこの仕方ない後輩を教え導いてください。よろしくお願いします。
さて、第72期はいよいよ第3コーナーから第4コーナーへと入ります。今期を滞りなく見事に仕上げることだけでなく、来期、来々期を見据えた計画的な活動も、一層重要になってくる訳です。どうかそれぞれの1日、それぞれの仕事を大切にし、誇りをもって完遂してください。加えて、それぞれの1円をおろそかにせず、それぞれの一言の重みを忘れないでください。その上で、皆さん相互の目配り・気配りを心掛け、それぞれの力を結集して問題を解決していきましょう。
言うまでもなく、それぞれの人師との邂逅にも感謝して。ご安全に。