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第14回「江戸っ子メダカ」
バルコニーにある5個のバケツの中では、メダカが元気に泳いでいます。特にこの時期になると水上に浮かぶホテイアオイの根に卵を産みつけるので、そのホテイアオイを別のバケツに移して保護し、孵化を待ちます。しばらくすると稚魚が何匹も見られるようになり、バケツの中を所狭しと勢いよく泳ぎ回るその姿は微笑ましくさえあります。
社会人としてのスタートを横浜で切り、本社転勤により東京・板橋の志村三丁目にある単身寮に引っ越した後、結婚したため世田谷の桜上水にある相当年代物の社宅に住むことになりました。501号室だというので「ほお、5階か」と思ったら、新館の1階のことで、しかも新館も旧館も見分けがつかないほどの「思わず唸りたくなる」建物でした。しかし、狭いながらも(古いながらも?)楽しい我が家、結婚生活の出発点に相応しい所だったかなと今では思っています。日本大学文理学部のグランドから飛んでくる砂埃にめげることもなく、妙に高い湿気にも耐え、それなりに工夫して生活していましたし、また何より敷地内に美しく咲く桜花を愛でたり、近所の下高井戸商店街まで散歩してみたり、心やさしい人々と語り合ったりしたことが懐かしく思い出されます。
ところが、故あってその社宅が売却されることになり、住人達は退去を迫られることになりました。次々と転居されるご家族を見送りながら、ついに私達夫婦も自分で探した賃貸マンションへ引っ越すことになりました。桜上水よりもさらに新宿の本社に近い渋谷区笹塚にあります。都心なのに戦災に遭っていないのか下町の風情が残っていて、庶民的な十号通り商店街と十号坂商店街を歩いて抜けた先の静かで落ち着いた所に住むことになったのです。
そこの大家さんも同じ建物内に住んでいて、夏場になると「入居者の皆さんと一緒に屋上でビールでも飲みませんか」などと誘ってくれました。解放された屋上へ出ると、いくつかの椅子が並べられ、皆さん既に冷えた生ビールとスイカなどを口にしていました。星空や彼方新宿の夜景を眺めてから視線を下ろすと、何やら大きな甕がいくつも置かれていることに気が付きます。「これは何ですか」と尋ねると、大家さんは「メダカを飼っているんです。しかも自然に生息していた、日本古来、東京の野生の黒メダカです」との答え。「東京生まれの東京育ちですね」と返すと、「そうです。江戸っ子です」と破顔されました。正直言ってメダカにはあまり興味がなかったので、話はそれで終わり。心地よい酔いの世界に入っていってしまいました。
数日後、大家さんが部屋にやって来て、「お裾分けです」と水草と一緒に件のメダカ数匹を分けてくれました。お礼は言ったものの、そもそも気が無いのでベランダに置いておいたら、案の定全滅です。でもよく見てみると、何やら小さな線状のものが無数に動いているではありませんか。孵化した稚魚だったのです。その瞬間「これは大切に育てなければ」と考えを改め、毎日の餌やりを欠かさず成長を見守り続けることにしました。愛知へ転勤となった時には、ビニール袋に移して慎重に「搬送」したものです。
あれから20年近く経ちますが、今のメダカはもう何代目になるのでしょうか。江戸っ子メダカは、この愛知の地でも生き続け、何世代にもわたって生命を繋ぎ続けてきました。生命そのものには勿論重い価値がありますけれども、その生命が断絶することなく子々孫々に繋がっていくということ、またあるいは繋げていくということ、そうしたことにも大きな価値があるということに異論はないでしょう。
人間がその活動を通じて、繋ぎ、また続けてきた事柄には、今日まで繋がり、続いてきているということ自体から派生する意義があることに加えて、所謂「原因と結果」が内包されています。何らかの原因や理由があるからこそ結果として現在に続いているという訳です。現在の1人の人間によるだけではなく、先人達による苦悩と納得、努力と改良の集積物を目前にしていると表現してもよいでしょう。我々は、そうした事柄に対して何らかの判断をしたり評価をしたりする際には、その「原因と結果」について思いを致さなければならない、言い換えれば先人達の思考の歴史について省察してみなければならないのです。こうしたプロセスを経ずして、そうした事柄を安易に全否定したり、また逆に全肯定したりすることは、どちらも先人達への冒涜であるだけでなく、現代人の思い上がり以外の何物でもないでしょう。これまで続けてきたことには続いてきたということだけで価値があり、それには訳がある、その訳を先ずは探求してみようという姿勢こそが謙虚かつ健全なあり方だと思います。
毎朝餌を食べる小さなメダカを見つめていると、同じように毎日毎日一生懸命飼育していた大家さんを思い出し、絶えることなく生命を次に繋いできていることの素晴らしさを実感します。と同時に、今日の稚魚一匹が生まれるのに関わった多くの人々、様々な環境に敬意を払わざるを得ません。
ここまで来るともう飼育を止められませんね。
「メダカ」はまさに夏の季語です。この猛暑を乗り切るべく、健康管理には十二分にご留意ください。健康管理は安全確保の大前提です。今日も仲間とともに無事に家路につけるよう頑張りましょう。
ご安全に。