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第17回「墓前で考える」

 会長が亡くなって一定の月日が経ち、もうそろそろかなとも思ったので、武豊のお墓と京都の東本願寺(正式には「真宗本廟」)に納骨することにしました。
 役所手続、墓誌刻名・設置、檀那寺との打ち合わせ、スケジュール調整、切符手配等々、人一人が亡くなって納骨するということはなかなか大変だということを改めて実感した次第です。
 特にお墓への納骨にあたっては、台風22号が最接近し、激しい風雨に見舞われることとなったので、ご住職も含めて全員びしょ濡れになってしまいました。そんな中でも、ろうそくに火を灯し、お線香を上げ、読経していただき、皆で合掌しました。まさに「思い出に残る」納骨となりました。
 盆暮れ正月や月命日などに故人を偲んでお墓参りをすることは、今でも日本人の伝統的慣習の1つとして特徴づけられるものですが、身内のお墓参りだけでなく、歴史上の人物や有名人のお墓にお参りするということも見られ、人によれば、そうした行動は特に日本人によく観察されるものだと言います。別に日本人に限ったことではないような気がするものの、確かにその人物の生涯をたどり、どちらかと言えば生地よりも終焉の地(ゴール)を訪れるという体験に興味関心が抱かれているということは事実なのでしょう。生地の環境は移ろいやすく変化してしまう可能性が高い一方、墓所は比較的長い間残されており、訪れやすいということもあるのかもしれません。
 今からもう20年以上前のことになりますか、ジャン=ジャック・ルソーの墓所を訪れたことがあります。ルソーは、18世紀の所謂「啓蒙思想家」で、『学問芸術論』、『人間不平等起源論』、『社会契約論』、『エミール』、『告白』などの著作で知られ、フランス革命に思想的な影響を及ぼしたと言われています。彼の生地は今のスイスのジュネーブ(当時はジュネーブ共和国)で、現存する生家へ行ったこともありましたけれども、当時は記念碑が外壁に設置されていただけでした。現在は博物館となっているようです。
 墓所は、パリの北東約40㎞にあるエルムノンヴィルという田舎町にあり、公園の池の中の、ポプラの木に囲まれた小島に石棺が安置され、そこには「自然と真理の人ここに眠る」と刻まれています。(フランス革命の時に彼の遺骸はパリのパンテオン[偉人廟]へ移葬されましたが、有志の手により再びポプラの小島に戻されました。)
 日本を出発する前にフランスに詳しい人に時刻表を調べてもらい、パリ北駅から列車で最寄り駅まで行き、そこからタクシーを利用せよとのアドバイスを頂いたところ、パリのホテルのフロント係のおじさんによると、「今はバカンスでそれほど列車は走っていないし、タクシーも休みだろう」とのこと。これは困ったと途方に暮れていたら、「私はエルムノンヴィルの近くに住んでいる。もうすぐ仕事が終わるから、ガソリン代だけくれれば送って行ってやろう。帰りは列車利用だ」というありがたいお言葉。渡りに船とばかり、そのおじさんの車で一路目的地まで向かうことになりました。
 一面の田園風景。彼方まで広がる畑の中には、時折何本かの高木が目に入ります。ただ明らかに日本の田園とは異なる「フランスの田園」でした。
 ポプラの小島を目にした時は非常に感慨深いものがありました。ルソーの数々の著作、苦悩の生涯、その終結の地……。最期の地に立ち、静謐の中で時間が止まり、彼の人生が私の頭の中で次々と再生され、何かしら彼と対話をしているような感覚すら覚えました。
 近くの駅まで送って行ってもらう途中、シャンティイー城にも寄ってくれた親切なおじさんには本当に感謝しています。好運でした。
 墓所を訪れ、それと向き合うということは、ただ思い出に浸るということではなく、故人に問いかけることであり、先人に尋ねることに他なりません。しかし、相手は既に亡くなり、この世には存在しないのです。従って、故人に問い、その答えを得んとすることは、故人の記憶と自己の思考を融合させながら懸命に自問自答しようとする試みに相違ありません。自分で悩み、考え抜いて、終局決断する。これを自己省察のプロセスと考えるならば、墓参はまさに自己省察の機会そのものだと言えるのではないでしょうか。
 この自己省察において、しかしそれでも、実際は完全に自己だけでは完結していないという意識を持つことがあるとすれば、もしかしたらそこには何らかの「彼岸からの力」が働いているのではないかと考えることがあったとしても、それは今を生きる人間の謙虚さと故人への親愛の情の深さとして評価されることこそあれ、神秘主義に陥ったものとして批判される筋合いなどは全くないと言うべきでしょう。自己省察の中で故人との対話がなされる時、本当の意味での自己省察を達成するための推進力が与えられると考えます。「自分で考える」と言いながら、その「自分」は「他者」より生命を授かり、他者に生かされているという面があることを、ふと思い出さざるを得ません。
 暴風雨の中での納骨。骨壷の中の遺骨を1つずつ取り出して小さく砕き、墓内に納めながら、あれやこれやと考えます。その瞬間瞬間に対話がなされたかのように感じつつ、自問自答を繰り返します。雨が涙とするならば、あの雨は差し詰め号泣でしょうか。
 これからは確実に寒くなり、空気も乾燥します。一層お体ご自愛のほどを。ご安全に。

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