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第42回「床屋談義」

 月に1度は床屋に通います。近所の同じ店に通い続け、余程のことがない限り店を変えることはありません。店主の方も、まさしく「一を聞いて十を知る」で、こちらからあれこれ言わずとも、席に着いた途端にハサミが音を立て始めます。流れは止まることなく順調に髪は整えられ、顔は剃られ、洗髪へと進みます。
 床屋、別の言い方では、散髪屋、理髪店、理容店とも呼ばれますが、そこはただ調髪してもらうだけのところではなく、気心知れた、ユニークな店主との会話を楽しむ「サロン」でもあります。従って、その床屋の良し悪しは、理容技術に加えて店主のキャラクターによるところ大でしょう。時に心地よい眠りに誘われるほどの快適な雰囲気の中で、丁々発止、テンポよく繰り広げられる会話を楽しみにして店の扉を開けているのもまた事実なのです。
 このような会話は「床屋談義」と表現されることがあります。「床屋談義」とは、政治、経済、天文、地理、社会風俗、巷の噂、果ては趣味に健康何でもござれで、あらゆる事柄を話題として、床屋の店主と客との間で交わされる雑談、世間話、四方山話のことを言います。思いつくまま気の向くまま、気軽な気持ちで言いたい放題、面白おかしくやり合うので、軽佻浮薄で取るに足りない会話と一笑に付される嫌いもあります。しかしながら、この「床屋談義」は、そんなに軽く扱って等閑視してよい代物ではありません。遥か昔から変わらぬように、それは庶民目線から発せられた庶民の声そのものであり、時にはズバリ真実を言い当て、見事に本質を見抜いていることすらあるのです。「下衆の勘繰り」と揶揄されることすらあるものの、存外「下衆の勘繰り」ほどよく当たるという見方もあります。身近な「サロン」たる床屋で交わされる会話こそ、一見軽く実は重い意味を持つのです。人と人との交流を生み、談論風発、自由闊達に意見を交わす中で、同意・共感を得て安心したり、一緒に怒ってストレスを発散したりできる「床屋談義」こそ、何とも優れた効用が見られる日常生活のひとコマ、「営み」と言えるでしょう。
 この「営み」を可能にするのは、偏に店主の知識技量と人柄であることは先に述べたとおりです。あらゆる世代のあらゆる境遇の人々と接し、また語り合いながら、客を不愉快にさせないうちにハサミやクシやカミソリを自在に動かし続けて仕上げていけるというのは、まさしく職人技以外の何物でもありません。私自身も、店主の口から矢継ぎ早に語られる膨大な情報・経験に驚嘆するだけに止まらず、独特でリズミカルな語り口についつい引き込まれ、気付いた時には、いつの間にやら自分も店主を真似て全く同じ口調になっていたということもしばしばです。
 思えば一体どれくらいの人の言動やら振る舞いを真似てきたことか。書物や演劇・演芸・映画・テレビなどの影響は勿論大きいものです。しかし、それら以上の影響は、先生、先輩、上司、同僚、友人、それに市井の人々からこそ間違いなく及ぼされているでしょう。ファッションは言うに及ばず、身振り・口ぶり、書体・文体、場合によってはものの考え方そのものまで、意識的または無意識的に真似してきたことは、恐らく山ほどあるに違いありません。相手の魅力は魔力となってこちらへ伝播し、いつの間にやら自分の内に入り込んできて、あたかも自分の「振り」をして表に登場するのです。つまり、一挙手一投足や思想信条までをも含んだ広い意味での「他者の生き方」を真似し、それを「自己の生き方」として主張してきた面があるということなのです。もう少し踏み込んで言うと、「真似の集合体」こそが、今現在の自己を形作る上での端緒なり土壌になっているのです。
 我々は、多くのことを真似し、学びながら年月を重ねていきます。そもそも「学ぶ」は「真似ぶ」からきた言葉で、古語辞典によると、「まなぶ」という動詞は、名詞の「まね」に接尾語「ぶ」を付けて動詞化したものだとされます。また、漢和辞典を調べると、「学(學)」という漢字は、道理のわからない子供が習って悟るという意味を持ち、「習」は何度でも繰り返し訓練して鍛えることを指すと解説されていました。要するに、これらの言葉を総合すると、至らぬ者が不断に真似を続けて成長するという含意がそこには見られるのです。
 先人を始め、お手本となる他者の残してくれたもの、あるいは振る舞いをしっかりと見つめ、なぞり、模倣し、時に無自覚的に受け止めることによって、先ずは吸収してみようとする。一旦は自己主張を抑え、素直に他者の「型」を習得する。一心に習得する。その他者の「型」もまた、当然のごとく別の他者の「型」を真似て習得されたものに違いありません。こうした真似の連続の中で、その「型」をほぼ完全に習得し得た瞬間にこそ「型破り」が可能となります。かつて18世中村勘三郎が若かりし頃に聴いたラジオ番組の中で、『山びこ学校』の無着成恭が「型があっての型破り。型が無ければ形無しだ」と東北訛りで訥々と語ったことに感銘を受け、「なるほど!」と膝を打ったというエピソードは有名ですが、まさに真似の極致に至ってようやく「型」を破り、自分なりの見方や仕方、意見や主張を「オリジナリティー」の名の下に表明できる能力と資格を獲得することができるようになるのでしょう。地に足の着いた「型破り」です。
 学問であれ、芸事であれ、仕事であれ、どれにしたところで入門時には、ただひたすら純真な上に謙虚な気持ちになって、一所懸命かつ忠実に師の説やスタイルを吸収するところから始めなければなりません。未熟な人間が、生意気にも生半可な了見で知ったようなことをペラペラと喋ったところで、所詮高が知れています。見るに耐えかねるほどの「やっつけ仕事」でしたり顔をされても哀れにしか映りません。「自由な」とか「個性的な」などと大見得だけは立派に切って形容しても、大体のところが雑駁・粗悪、低俗・低級、不十分・不完全、故に不安定な、取るに足らぬ言動に終始するのみでしょう。それでは単に醜悪な「エゴ」の露呈が惹起されてしまうだけなのです。しかし、徹底した修練の過程を経てのちは、自分自身に芯なり軸なりが出来上がり、新しい発想やより詳細で優れた考え、一層しなやかで洗練された姿形が生まれ出づることになります。それらの発想や考え、行動の態様は、言うまでもなく堂々と外部に向けて発信されるに値するものです。但し、そこには、師への尊敬と感謝がなければなりません。かくして、尊敬と感謝を前提とした上で、遠慮や逡巡なく自己を表現できたとすれば、それは即ち「オリジナリティー」が発露し、いよいよ顕現したと考えてよいでしょう。
 真似ることが学びのスタート。もうおわかりのように、「真似び」なくしては、自律した個人、自由な自己表現なんぞ存立し得ません。人間は、「真似ぶ」ことによって人格が作られます。また、様々な人々、様々な事象から「真似び」続けているため、それぞれの「真似び」がひとつひとつの面となって個人を形成していきます。その意味で、人間は「真似び」の「多面体」とも表現できるかもしれません。
 しかし、「真似び」の面と面の間には、ある時からとても小さな面が新たに生じ始め、それが次第に大きくなっていき、他の諸々の面を凌駕するようになっていきます。これぞ「オリジナリティー」の面、個性の面に他なりません。これらの無数の面が相互に作用・反応し合いながら複雑・微妙な「化学変化」を起こし、全体としてひとつの人格を創造していくのだと思います。継ぎ接ぎだらけで、取り留めもなさそうに見える塊りが、1人の人間へと変貌していくのですから、これほど興味深いことはありません。支離滅裂でもチャランポランでもなく、それぞれの面がしっかりと意味を持ってつながり、色鮮やかに光り輝いている「多面体」は、これからもますます面が増えていくでしょう。無限に増え続けた結果、「多面体」は「球体」となり、そのために人間が丸くなっていくのか、いつまでも角張っているのか……はてさてそこまではよくわからないのですが。
 とにもかくにも、人間のみならず自然環境や社会制度を含む神羅万象を他者と言うのならば、その他者を大いに「真似ぶ」ところから始めてみようではありませんか。決してそれは、邪道でもなければ脇道でもありません。まさしく王道そのものです。前を向いて堂々と「真似び」続けていきましょう。
 さて、今年は「令和」改元の年でした。その初年が終わりつつあり、間もなく「令和2年」となります。世界、日本、地域、家族、さらには自分自身において、沢山の喜びと悲しみのあった1年でした。自然災害もありました。社会事変もありました。様々な場面で様々な困難に直面することもありました。それでも時は刻まれ続け、新しい年を迎えようとしています。歩み続けるのです。
 1年を終え、次の年に臨む時点は、当社にとってはターニングポイント、第68期の折り返し地点となります。これまでの半期を顧みて次なる半期への決意を新たにする節目です。良きところは大いに「真似び」、悪しきところは反面教師としつつ、常に基本を大切に、丁寧に、愚直に仕事に励んでいきましょう。
 会社の役職員の皆様、今年も1年間本当にご苦労さまでした。また、ご家族の皆様のご理解・ご支援には心より感謝申し上げます。ありがとうございます。
 来年もどうぞよろしくお願い申し上げます。よいお年を。ご安全に。

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