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第48回「今になってわかる味」
ただの食べず嫌いだったのか、食べても嫌いに違いないと強情を張って避けていただけなのか。昔は銀杏(ぎんなん)が嫌いで、茶碗蒸しなどに入っているときはそれだけをよけて食べていました。どうにも得体の知れぬ形状、何とも微妙な食感、それに全く惹き付けられず楽しめない味。子供の頃には敢えて近寄ることもない食べ物でした。銀杏だけではありません。他にもどうしても口に馴染まない食べ物はいくつかありました。ところが、どうしたことか学生時分から食べられるようになった、いや好んで食べるようになったものがいくつかあるのです。苦味を旨味と捉えられるようになったのか、食べ物をその生産に関わった人々の思いやら文化的背景やらまで感じ取って味わおうとするようになったのか。ともかくも、そこには「敬遠・拒絶」から「接近・受容」への移行があったのです。
他方でその逆もある訳で、年を取ると刺身などの生ものが苦手になる方がいらっしゃいます。また、脂っこいものや味の濃いものが嫌いになる方もお見えになります。これらも加齢による嗜好の変化と言ってしまえば簡単なのですが、時間の経過がもたらしたものは、味覚の衰えなのか、はたまた味覚の向上なのかはよくよく考えてみなければならないところです。何故ならば、この変化は、「敬遠・拒絶」から「接近・受容」への移行に続く「敬遠・拒絶」かもしれず、こうした一連の変遷こそが「感性の研ぎ澄まし過程」そのものであるとも受け取れるからです。わからなかったことがわかったようなつもりとなり、またわからなくなる。しばらくすると、やはりわかったように感じられ、あれこれ悩むうちに結局わからなくなり……。この過程は、まるでサイクルを描きながら上昇するがごときものでしょう。
読書でも同様なことがあります。同じ本でも、何十年も経ってから読むと全然違った感想を持つようになったり、以前は難解で何を言っているのかさっぱりわからなかった内容が今では妙にあっさりと腑に落ちたりするようなことがあります。これについては、もしかしたら加齢により「思考の持久力」が落ちて、表面的な事柄しか感知し得なくなり、雑な早合点を引き起こしてしまっていることが理由かもしれませんが、逆に核心を突ける洞察力が強められてきた結果かもしれないのです。さらに何十年か先に読むことができるとしたら、今度はどのような印象を持つことになりましょうか。
年齢を重ね、生物学的な機能・能力の減衰(つまり老化)を招くことと、経験を重ね、ある種の判断力や思惟力の向上を得るということとは、当然のこと全く異なります。後者にあっては、まさしく「感性の研ぎ澄まし過程」と並走する形で、部分部分の問題を深堀りし、同時にそれを全体の中で位置づけて総合的に把握しようとする視点、自己と他者とを対照して事象を相対的に捉えようとする姿勢が生まれてくるように思われます。別の言い方をすれば、一層細かく精密に計測することができる尺度(物差し)を持ち得るようになるということでしょうか。今までは測りきれなかった事柄がしっかりと寸法取りできるようになるのです。それでいて、その尺度はまだまだ改良の余地が残されています。
漠然と拒絶していた物事を、都度改良された尺度で計測、吟味の上で納得(理解)する。これはつまり「真価」がわかるようになっていくプロセスであるとも言えましょう。年を取ることを謙遜して「馬齢を重ねる」などと表現することがありますけれども、やはり喜劇俳優の益田喜頓が老友に贈った言葉「歳月はあなたの顔にシワを刻むが、心にシワを刻むことはない、永遠に」こそ余程真実を伝えているような気がしてなりません。
喜劇と言えば、先日「松竹新喜劇」のDVDを観る機会に恵まれました。舞台収録映像で、何十作品も堪能させてもらいました。
当地方は関西の喜劇・お笑いを身近に感じてきました。劇場や寄席に来演することも多々ありましたし、何よりテレビでは松竹新喜劇や吉本新喜劇を始め、多種多彩なお笑い番組が放映されていました。小さい頃から大のテレビ好きだったので、土曜日のお昼に小学校から帰ってくると、2番組連続で放映されていた吉本新喜劇をゲラゲラ笑って楽しんでいました。特に『あっちこっち丁稚』という番組では、カステラ屋「木金堂」を舞台にしたドタバタ喜劇が展開され、そこに登場する人物のコミカルな決め台詞は随分学校でも「借用」させてもらいました。吉本新喜劇は、ナンセンス・ギャグをふんだんに散りばめた軽快なコント色が強く、子供でも理屈抜きに笑えるものでした。
他方で松竹新喜劇は、しっかりとした構成のストーリーを軸に据えた、人情味溢れる喜劇で、爽やかな笑いの後には必ず涙と拍手を誘いつつ緞帳を下ろします。親子の情、兄弟の絆、夫婦の愛、庶民への思いやり、人間の温かみと優しさ、人の世の浮沈。全盛期の松竹新喜劇を牽引した藤山寛美の芝居は、息つく間もなく一気に繰り広げられる台詞回し、絶妙のタイミングで笑いと涙を引き寄せるメリハリ(緊張と緩和)のある演技、大阪弁ならではの軽妙さと意表を突くアドリブ等から成ります。私生活上の諸問題すら芸を裏打ちしているのではないかと思わせるほど、劇場内すべての観客の心を掌握し、圧倒的迫力で魅了し尽くす芝居なのです。二代目の渋谷天外、それに脇を固める小島秀哉、小島慶四郎、高田次郎、伴心平、酒井光子、四条栄美といった老若男女の俳優陣もまた素晴らしい。見事なり、秀逸なり。寛美が今でも現役で活躍していたのならば、是非とも劇場に足を運んで、一度この目で実際に観て、笑って、泣いてみたかったものですが、残念ながら彼は平成2年に亡くなっています。昔は名古屋の御園座にも来演していたようですけれども、知らぬ間にチャンスを逸していました。今となってはもはや叶わぬ夢です。惜しまれるかな、悔やまれるかな。
勿論、この松竹新喜劇とて子供の時分にテレビで観たことはありました。ただその時点では、松竹新喜劇の持ち味、完成度、描かれる人間模様の機微などについて全く気付かず、さっぱりわかりませんでした。観ても涙するどころかあくびを出していたに違いありません。理屈では割り切れぬ世の中なるものが複雑怪奇極まりなく、嫉妬と怨念と打算の難解な三次関数から成り立っているのだということをどれだけ描写されても、如何せん小学生や中学生が理解するのは土台無理な話だったのです。わかる訳がなかったでしょうし、拙い心のアンテナでは受信できなかったでしょう。
演劇であれ、音楽であれ、あらゆる芸術分野において、自分と同時代に生き、卓越した才能を発揮して活躍する「輝ける人」。その輝きに気付く稀少なチャンスを逃してはならないことは以前に「本物を見よ」と題した回で詳述しましたが、本物を見るために必要な条件をコンプリートするためには、一定の年月の経過(経験)が大前提として求められるという明白な事実を今更ながらに再認識した次第です。要は、苦味を旨味と捉えられるようにならなければ接近し得ない価値があるということです。
苦みのもつ旨味を知り、旨味のもつ苦みに迷う。時の流れにただ身を任せるか、むしろそれに抗うか、といったことはひとまず措き、時間の経過は、人の立ち位置や視座、ものの考え方や捉え方に変化をもたらします。『放浪記』の林芙美子が「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」と記したように、長いようで短い一生の中で、いいこと悪いことがこき混ぜられた日々に直面し、今日もまた「苦悩のち落胆、ときどき仕合わせ」という天気予報に気を揉むしかないのがごく普通の人でしょう。その間、人との出会いと別れを始発駅と終着駅としながら、家庭を築いたり、恩師や先達に出会ったり、教え子や部下を持ったり、時に自ら病を得たり、多くの人を看取ったり、また最期には看取られたりするのです。このそれぞれの段階に移る度に人は変わります。よくご存じのように、立場が人を作るとも言われる所以です。
「親の心子知らず」。亡父の立場を思うと、あれこれと評論家やお客様気取りで不平不満ばかり言っていた自分を恥じるのみですが、その立場に立ってみて初めてわかることがいかに多いことか。そのひとつが、部分をもって全体を語ってはならず、常にあらゆる事象をバランスよく総合評価した上で、やれること、やるべきことを取捨選択し、進むべき方向を見定めるという決断の難しさです。予言者でも八卦見でもないので、正解の予見はできません。ただ所与の条件から最大多数の利益を満たす、または時として大義を貫くと思われるところを選ぶのみですが、これぞ「言うは易く、行うは難し」そのものなのです。亡父の人知れぬ苦悩と苦闘の連続に思いを致すと、まだ自分はその序の口あたりに立っていると考えるのが相当でしょうか。仏壇に向かって手を合わせると、勝手ながら何かを伝えてくれているような気がします。「周囲をよく見よ、ヒントは残しておいてある。だが最後は自分で考えよ」、と。
今になってようやくわかること、わかりかけてきたこと。しかし、さらに時が経てば、一層真に迫ったところに接近できるかもしれません。その時も、「今になってわかった!」と改めて心中つぶやくのでしょう。同時に、「わかったつもりだろうが、まだまだ何もわかってなどいない!」と喝破され、その都度「至りませんで……」と謝り、再び難行苦行の道を歩むことになるのかもしれません。際限なく続く体験です。さて今後は一体何に気付くのか、大変楽しみでもあります。
今回は結論めいた話から始めたばかりに、いささかわかりにくい展開となりました。少々まずい「味」付けだったでしょうか。
第68期は今月で終了します。皆さん、本当にごくろうさまでした。
それにしても厳しい1年でした。昨年の今頃からは想像すらできない未曽有の事態に巻き込まれました。前例のない中、暗中模索で手探りしながらも、どうにかこの1期を終えられそうです。
思うに、愚直かつ誠実にこの「建設の仕事」という道を追求していけば、何かしら新しい気付きを得られ、新しい世界、新しいステージを知ることができるようになるのかもしれません。言うまでもなく、それは決して脱線、毀損、破壊の果てにはなく、飽くまでも今の立ち位置を深化発展させた先にのみ出現するのです。
来期第69期は間もなく始まります。また1歩ずつ山を登り続けます。新しい景色に期待しましょう。
先ずは今期の御礼から。来期もご安全に。