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第49回「ペン先のインクは踊る」

 ただの「アナログ趣味」と片付けてはいけません。
 少し前に名古屋の古本屋へ立ち寄った時のことです。そもそも古本屋、つまり古書店なるところには一種独特な雰囲気が漂っています。大体からして今や新刊本では手に入らなくなった昔の書籍を求めて立ち寄ることが多いのですが、店それぞれに得意分野があり、一癖も二癖もある店主の目利きによって仕入れられ、値段を付けられた古本が整然と、時に雑然と棚に並べられたり台に積まれたりしています。古本そのものも、何人もの人々に読まれ継がれてきており、どういう故あってかはわからないものの、人手から人手へと渡り続けてようやくその店にたどり着いた、という愛読と所有の歴史が、日に焼けた紙色や薄く滲んだシミのまだら模様のうちに伺われます。同時に、店内所狭しと陳列されたすべての古本は、それぞれに異なった「におい」を持ち、それらが微妙に混淆して店の空気を構成しているのです。その空気を感じ、吸収しながら、棚に目を向けてじっと凝らし、興味を引く1冊を探し出そうとすることは、まさに愉悦、快楽以外の何ものでもありません。東京の神保町などに出かけたら、それは時間を忘れてしまう訳です。
 丁度そこには、岩波書店の全集本『日本思想体系』全67巻が無造作に積まれていました。1冊ずつが重厚で立派な箱に入っています。古代から江戸末期までの思想家達の著作が収録されており、私も何冊か手に取ってみていると、「バラ売り可」との表示が目に入り、しかも箱に鉛筆で殴り書きされた値段は、驚くことに1冊当たり百円玉数枚で買えるほどでした。関心のある思想家を扱った数冊を抜き取ってレジまで持っていき、店主に話しかけました。「随分安いですね」。店主が言うには、「今どきこんな重たい本は売れませんからね」。ほう、最近の本の値打ちは目方で決まるのか、と心中呆れて苦笑してしまいました。当世人諸氏は、重たくても、保管に場所を取っても、それでも得られること、いや、それによってのみ満たされるものがあるということに気付かないのでしょうか。店主の嘆息を聞くと寂しくなるばかりです。
 そこで、本から万年筆に話題を変えます。
 イギリス法を研究されているS先生は、普段からよく万年筆をお使いになっていらっしゃいました。ペリカンか、モンブランか、パーカーか、どこのメーカーのものだったかはよく覚えていませんが、使うインクの色はブルーブラックで、いつも細かな味わいある文字を丁寧にお書きでした。文字もさることながら、その美しい色合いに感心し、そうした手書き文字を生み出す道具、万年筆も気になり始め、その時以来、自分でも万年筆にこだわるようになっていったのです。
 万年筆(Penペン)には、国産メーカー、外国メーカーなどの様々なブランドがあり、それぞれにデザインも個性的で、高級品から百均の廉価品までバラエティにも富んでいます。しかし構造的には大体同じで、本体とそのキャップ(キャップレスもあり)から成ります。本体は、ペン先(ニブ)、首軸、胴軸(ペンによっては尻軸もあり)から、キャップは、天冠、クリップ、キャップリング等からそれぞれ構成されます。特に大切な部分はペン先で、その最先端には筆記用紙などとの接点となるペンポイントがあり、耐摩耗性に優れたイリジウムなどが使用されています。ペン先は、ペン芯によって支えられることにより、安定した筆記が可能となるのです。ペン先に使用される材料は、ガラス製や竹製のものはひとまず措くとして、21金、18金、14金、ステンレスなどで、中には銀色のロジウムメッキが施されたものもあります。また、ペン先の幅によって文字の太さが決まり、極細字、細字、中細字、中字、太字、極太字等々のラインナップがあります。さらに高度な技術によって独創的な形状に加工された特殊なペン先もあり、ニブ・ワールドの奥深さを知るところです。本体へのインクの取り入れ方は、コンバータ(吸入式)かカートリッジ(交換式)のどちらかを使うのが一般的ですが、使うインクの世界の広大さにこそ注目すべきでしょう。耐光性や耐水性に優れた顔料インク、扱い易く、複雑な色味を楽しめる染料インクという大分類の下には、何百種類にも及ぶ色のインクが用意されており、その数は無限大に増え続けていく感がします。最近ではオーダーメードにてご当地インクなども登場しているぐらいです。
 眺めているだけでも楽しくなってきますが、万年筆は道具ですから使わなければ意味がありません。即ち、ここでの道具愛は、自ら文字を書く楽しみを得る中でこそ育まれるのです。パソコンなどでキーボード入力するのではなく、万年筆、いやボールペンや鉛筆でも結構、そうした筆記具を駆使して自分の文字を記していく中で、文字自体の文化的意味合いを多少とも感じながら、思考を記号化しようと意欲するところに、そこはかとない充実感や満足感が生まれ出で、そうした感覚を与えてくれるきっかけを作ってくれた万年筆へと改めて思いは至るのです。
 考えてみれば、辞書の類にしてみても、昨今の電子辞書などではなく、紙の辞書を使う場合は、面倒でも何度も何度も繰り返し引いているうちに、引き方も慣れたものになっていき、引くスピードも大幅にアップしていくだけでなく、辞書のあちこちには赤鉛筆で線が引かれるようになり、徐々に手垢も付いてきて、これまでの華麗なる「戦歴」や「足跡」、時に「戦利品」が物語られるようになっていきます。こうした一見非効率な営みを通してしか得られぬ充足感があるように思えてなりません。充足感を喜びと言い換えてもよいでしょうか。
 不便であるということ、手間暇がかかるということ、遠回りになるということ。これらの場合、辛抱強く成し遂げようとする意欲と気力がなくては前へは進めず、時にそうした状況に我が身を置くことに楽しみすら覚えるぐらいでなければなりません。この一見面倒なプロセスにおいてはなおのこと、自分の手足を動かし、自分で考え、判断することが当然要求されます。それに、判断に必要な情報や選択肢は提供されるものだけでなく自分でも探し出し、実行の工程・手順・道具を自分で作成したり、アレンジしたりしなくてはなりません。準備段階から結論・成果を得られる段階に至るまでを通して、事態は極めて「まどろっこしい」と形容されるに違いないでしょう。
 しかし、そうした事態にあればこそ、明確に自分は動き、活発に働いていると言えます。自分の思考は明敏に機能しています。自分の体は縦横に駆使されています。つまり自分は「活きている」、確実に能動的に活動しているのです。自分の価値観、自分のポリシー、自分の主張、自分らしさ、そういった事柄一切合切を表現し、具象化しようとしているのです。言うまでもなく、この行為は様々な自然的社会的条件により前もって制約を受けています。この制約は誰にとっても不可避です。程度こそ人それぞれですが、この制約を免れることは宿命的に不可能です。ですが、この宿命的制約の中で、何はともあれ自律的に行動するとすれば、結果的にまさしく「自由」な生きざまを見せていると言えるのではないでしょうか。さらにまた、この「自由」に憧れ、それを享受するために、また、そう欲して行動する自分を楽しみ、その瞬間に酔いしれるために、他者への依存に安穏とすることなく、自分自身が意識的に正面に出て行動することも、同様な生きざまにつながっていくように思われます。
 爛熟する物質文明、無限に拡張する全自動化社会にどっぷり浸かって生活していると、人間は、文明の頂点で主人公気取りで振る舞っているつもりが、いつしか振る舞わされている状態に追い詰められているのだという現実にはほとんど気付きません。「万物の霊長」を自称する人間は、全世界の「創造者」としてあらゆる秩序をコントロールしていると錯覚しているのでしょうが、無自覚の内に憐れな「奴隷」になりつつあるのです。自然環境に怯え、社会制度に苦悩し、機械に行動パターンを規定される人間。迷妄や偏見、通例や常習に盲目的に従い、無反省に受容してしまう人間。自分で考えようとしない「無思考のパラダイス」に胡坐をかく人間。そんな「パラダイス」なんぞ幻影にすぎないとは知らず、そこに身を委ねてしまうということは、一見お手軽に安楽が得られるようで、実は自己を見失うという恐るべき暗闇の中を彷徨うことを意味します。
 かりそめの安楽に騙されることを避けるために、多少の労を厭うことなく、自分を起動させ、自分でクリエイトしようとする試みに楽しみなり意味合いなりを見い出そうとすることは、得てして時代の最先端をぐいぐいと突き進もうとする動きからは離れた所で何事かを実現しようとすることなのかもしれません。しかし、それを文明の進歩への逆行と捉えるべきではないでしょう。むしろ進歩と並走する熟慮反省に基づく自己探求なのです。別の言い方をすれば、人間が人間としての主体性、即ち自分自身を探し求め、それを回復しようとする前向きな営みに他なりません。
 古典的な道具ですら、便利さの追求の果てに生まれてきたものなのでしょう。しかし、人間の歴史を少しだけ振り返ってみただけでもわかるように、それを用い、自分の体を動かし、自分の技量の範囲内で、自分の思考や感情を表現できるのが万年筆なのです。万年筆のペン先につたうインクは、ヌラヌラと紙の上に踊り出ます。文字の一画一画、一払い一払いに見られる踊りの軌跡には、「自由」が宿るのです。だからこそ、今多くの人々が万年筆に再注目し、改めてその魅力を語り始めているのでしょう。思えば至極当たり前のことではあります。
 今回は、少々理屈っぽく「深堀り」してみました。
 いよいよ第69期はスタートしました。飛行機に例えるのならば、丁度離陸したところです。この1年間のフライトは、途中気流の乱れが予想されるかもしれません。とは言え、安全に目的地へ到着させるべく全力を尽くすのは当然のことです。勿論、我々は乗客ではなく乗務員です。責任をもって定刻に到着できるよう、安全航行に努めなければなりません。無事に到着できるとすれば、お客様には必ずご満足いただけることでしょう。
 毎回同じ時刻に離着陸を繰り返すとしても、1回とて同じフライトはないものです。その都度気候は変わり、お客様も異なります。これらの変化に直面する我々は、その真正面から対峙して問題をクリアし、任務遂行しなければなりません。これは、「建設工事請負業」にも全く当てはまることです。
 「建設工事請負業」の原点を忘れることなく、今期も一致協力して職務に邁進し、確実に成果を上げていきましょう。ご安全に。

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