IWABEメッセージ

Messages

第80回「レトロ」

 浪花千栄子(なにわちえこ1907-1973)は、流暢で歯切れのよい大阪弁と、時にたおやかに、時にきりりとした所作が印象に残る「味のある」名女優でした。見事に大阪弁を操ることができたのも、彼女が大阪生まれの大阪育ちであるからというだけでなく、その大阪「浪花」の地で苦労に苦労を重ねて辛酸をなめても、決して諦めることなく、きつい坂道を歩一歩と登り続ける人生を送ったからでもあります。大阪という「風土」そのものが、心身の奥深くまで徹底的に浸み込んでいたのでしょう。それが細かな演技の端々に表れていたと見ても、決して間違いとは言えないはずです。こうした彼女の人生を自伝という形で書き記したのが『水のように』(昭和40年 六芸書房/令和2年 朝日新聞出版)という作品です。出生の話、女中奉公に出されてからの辛苦の話、芸能界入りしてからの話、暮らし方の話、出会った多くの恩人の話等々で構成されたこの著作は、平易で読み易い文章により、女優・浪花千栄子の嘘偽りのない、また虚飾のない、等身大の姿が簡潔に表現されており、言葉遣いや筆の進ませ方にも謙虚さが感じられるという「好著」なのです。以下、『水のように』を参照しながら、彼女の「生きてきた道」を少しだけお話ししたいと思います。
 浪花千栄子、本名・南口キクノは、大阪の南河内に生まれました。父親はニワトリの行商人で、母親はキクノの弟を産んだのち、彼女が5歳の時に亡くなりました。小学校にも通わせてもらえず、道頓堀の芝居小屋へお弁当を入れる仕出し料理屋の下女として女中奉公に出されました。父親は再婚しましたが、その相手は、いわゆる「悪妻の見本」のような自堕落な人だったようです。あれやこれやあって小学校へ通えるようになっても、今さら学習の遅れを取り戻すことはできず、また月謝の払いもままならなくなって、数カ月で学校をやめることになってしまいました。「私の学歴というものは、正味二か月足らず」と述懐するように、ひらがなの書き順もわからぬまま、学校生活に完全なる休止符を打ったのです。それでも何とかして一通りの読み書きはできるようになりたい、と強く願った彼女は、少しでも文字に触れる機会を得るよう心掛け、古新聞や古雑誌を使った包装紙などを捨てずに懐に入れ、そこに書かれている文字を便所の中に籠ってひとつずつ覚えていったのでした。振り仮名や送り仮名だけを頼りに覚えていくのは決して生半なことではなく、根気と執念がなければなし得なかったはずです。「便所の中で勉強することだけが、ほんのわずか、一日の中で自分を取りもどし、自分もひとりの人間なのだ、ということを自覚する、とうとい時間でありました」という彼女は、千里の道を半歩ずつしか進めない思いがしても、「のろのろしてはいますけれど、深めてゆくということが勉強だ」と悟ったのでした。
 派手さも華やかさもなく、それどころか髪に「おびただしいしらみ」が湧くほどの不潔で貧しい生活を、周囲から蔑まれ、馬鹿にされて、強い劣等感に苛まれる境遇。自分の「聖地」でもある便所で自死すら考えた極限の日々。彼女自身の言葉を借りれば、「かえり見もされないどぶ川の泥水」のような半生。「私という水の運命は、物心つく前から不幸な方向をたどらされておりました」。……それでも彼女には困難を生き抜く力、生命力がありました。「どんな重い石や土に、上から押さえつけられていても、雑草は、自分の力でそれをよけたり、はねかえしたりして、時がくればちゃんと自分の花を開く、……そうや、私も雑草やった、だれも見てくれへんかてかめへん、私は、私ひとりの、自分だけの力で、私の花を開かすのや、それでいいんや……」。彼女は顔を上げ、前を向きます。「教育はなくても、物事に真心を持ち、腰を低くし、知らないことはなんでも人に聞いて教わる、という心さえ失わねば、それがりっぱな人間になる道だ」と気付き、人間として卑しい者を極度に嫌う潔癖性、道義に反することを許さない正義感、自分の「よい面の個性」を磨き続ける重要性を覚知して、能動的に生きていこうとしたのです。結果として、舞台、映画、テレビ、ラジオなどで大活躍する名女優になったのでした。
 ただ残念ながら、この「昭和の名女優」についての記憶が、令和の時代になって相当薄れてしまっており、彼女の演技に触れる機会が減ってきてしまっていることも事実です。意識して映像記録を見ようとでもしない限り、あの姿も声も遠く彼方の存在のまま終わってしまいます。「知る人ぞ知る」女優。しかし、知らぬままでいるのは何とも惜しい限りです。昭和の「歴史上の人物」という位置付けになってしまうのでしょうか。
 私自身の印象に残っている浪花千栄子の出演作品と言えば、映画でなら『夫婦善哉』、『お父さんはお人好し』、『猫と庄造と二人のをんな』、『宮本武蔵』、『悪名』、『小早川家の秋』、『女系家族』などなど、テレビでなら『大奥』(この悪役は本当に憎たらしかった!)、『細腕繁盛記』等々となりましょうか。しかしながら、最も多くの人の目に付いたのは、大塚製薬「オロナイン軟膏」のテレビCMであり、街中至る所に貼られた「ホーロー看板」でしょう。(彼女の本名は「ナンコウキクノ」ですから「軟膏効く」に掛かっているといいます。)
 特にこの「ホーロー看板」は、松山容子の「ボンカレー」、水原弘の「殺虫剤ハイアース」、由美かおるの「蚊取り線香アース渦巻」、大村崑の「オロナミンC」等と並んで、少し寂れた田舎町の古民家の壁などに未だに貼られています。色褪せ、錆び付いていても、その状態こそが、あるひとつの時代を象徴するものであり、その時代を想起する「よすが」となっているがために、今でも幅広い世代の関心を呼び、それぞれの世代のそれぞれの視点から、その値打ちが感じ取られているのだろうと思います。恐らくのところ、浪花千栄子を知る世代からしても、知らない世代からしても、いわゆる「レトロ」な世界の事象として捉えられているに違いありません。
 「レトロ」とは、“retrospective”の略語で、過去に関連したり、過去について考えたりすることを表す形容詞(時に名詞)です。「回顧的」とか「懐古的」などと訳されていますが、そのまま「レトロな〇〇」といった使い方をされる方が多いでしょう。最近では「昭和レトロ」と称される風物に関心が集まっており、「昭和喫茶」、「昭和歌謡」、「昭和スタイル」、「昭和デザイン」等々という名で話題になっています。そこからさらに遡って大正時代、明治時代へと目が注がれ、「大正ロマン」、「明治浪漫」、「ハイカラ」といった言葉が使われる中で、その時代その時代の思想潮流、社会現象、生活スタイル等に憧れを抱き、それを模倣したり、当代風にアレンジしたりする文化傾向が生まれ、今もなお存在しているのです。事物によって、また食べ物や服飾を通じて、時に博物館や美術館などを訪れて、それら「レトロ」を体感できる機会は得られるのでしょう。犬山の博物館・明治村とか、明智の日本大正村を散策して、時代の風薫る空間に自分を置いてみることも、そのひとつと言えます。
 「降る雪や明治は遠くなりにけり」とは中村草田男の俳句で、思い出の時代が現実に遠い過去になってしまったことに対する寂しさを表現しています。誰もが内心の故郷に抱く郷愁(ノスタルジー)に似た寂しさでもありましょう。当然こうした心情は明治に限ったものではありません。大正も、昭和も、平成すらも遠くなってしまうのです。遠くなってしまった時代に生まれ育った人々が、何十年後かにその時代を振り返ると、確かに寂しさが先に立ってしまうでしょう。しかし同時に懐かしさも感じるでしょうし、その時代に生まれ育った訳ではない後代の人々は、さらに加えて憧れを抱くことすらあるでしょう。そうしてみると、その時代を実体験した人であれ、歴史科目で学び知った人であれ、誰からしても、「『レトロ』とは寂しさと懐かしさと憧れが複雑微妙に混ざり合ったものなのである」と考えてもよいのかもしれません。
 その上で、「レトロ」を「歴史」という観点から見つめ直してみると、「レトロ」なるものの本質とか核心的な要素とかは、時の流れの最先端で生きる(自分を含めた)現代人にも、また、それより先を生きることになろう未来の人々にも、意識的か無意識的かは別にして、実は心の内の深奥なるところにおいて承け継がれてきているもの、承け継がれゆくものであるように感じられるのです。どの時代の人間にあっても、それより前の時代のものの考え方や生き方のエッセンスが血肉と化している、つまり、それらのエッセンスから完全に解放されるなどということは幻想に過ぎないのです。従って、「レトロ」志向とは、単に物珍しさから過去の遺物を回顧することではなく、むしろ自分の内なる精神・心根を省察することに他ならないと言うべきでしょう。勿論のこと、各地域・各時代においては、過去に類例を見ないほどの大変革・重大事件・天変地異などが起き得るでしょう。しかし、それにより従前と全く異なる状況が生まれてしまったとしても、その過去は、現在の、また未来の大変革等が発生するきっかけ、原因となっている以上、当世の人間は、過去や「レトロ」なるものと断絶したり、無縁であるどころか、「因果の紐帯」によって心身共にしっかりと結び付けられているという真実に気付かなければなりますまい。「温故知新」とも言いますが、「レトロ」なるものに触れたり、憧れたりすることは、冷静かつ心穏やかなうちに、自らの思考・知識・性向・心持ち、もう一歩踏み込んで「成り立ち」に至るまで思いを致すことと大体において重なります。表面的には「単なる流行・ファッションに過ぎない」などと強弁して騒いでいるつもりが、実はとても意味深い行動・振る舞いにつながっていたのです。
 昭和生まれの自分が「昭和レトロ」などという範疇で語られることには、少し茶化されているようで、時に腹立たしさすら覚えましたが、上述の行動や振る舞いの意義について改めて考えてみれば、あながち拒否したり批判ばかりするようなものでもないとわかりました。
 恐らくのところ、温かい目で共感・同感の意を示すぐらいが、丁度バランスの取れた態度なのかもしれません。
 さて、第71期の後半戦も2カ月が経過しようとしています。各人それぞれが、それぞれの持ち場で、工程・品質・原価・安全の複雑な方程式を前にして格闘していることでしょう。こうした格闘を続けるには、何よりも先ず心身の健康が大切となります。
 浪花千栄子の『水のように』には「手」と題された一文があります。彼女は毎日就寝前に、酷使してきた自分の体を両手でいたわることを習慣としていましたが、その手だけは両手でいたわることができません。ひどい霜やけやあかぎれになった手。辛苦の日々を共に経験してきた手。最もいとおしむべきこの手を再び不幸な目に遭わせてはならない……こう彼女は合掌して誓うのでした。
 建設という「ものづくりの仕事」には様々な困難が伴ないます。その困難を乗り越えられるのも、手や足などの身体と心がフルに活躍してくれるからです。そんな心身を不幸な目に遭わせてはなりません。職場の仲間全員に当てはまることです。
 心身の健康と安全を最重視して、毎日の作業に臨みましょう。ご安全に。

岩部建設株式会社 〒470-2345 愛知県知多郡武豊町字西門74番地 TEL 0569-72-1151

© 2006 Iwabe Corporation