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第84回「調子」

 バルコニーにあるプランターの土をしばらく休めたままにしていました。もうそろそろ何か植えてもよい頃合だと思い、近所の花屋さんに出かけて季節の花苗を品定めしていたところ、あまりにも苗の種類が多く、どれを選んだものかとほとほと困り果ててしまい、ついには店主に世間話かたがた相談に乗ってもらうことになったという次第。
 どのビニールポットにも、花の名前や開花時期、植え替え時の注意点などが記載された説明札が刺さっており、それらを眺めながら「今の時季だと〇〇がいいんでしょうかねえ」などと半分わかったような言い方で問いかけると、「いや、以前だったら〇〇をお薦めしていたんですけれども、最近は温暖化のせいか、成長具合や開花時期が早まってしまって、どうにも自信を持って『これ!』とは言えないんです」との返事で、それはまた意外なことだと驚いているうちに、続けてこう言うのです。「例えば、この春の桜の切り枝なども、花瓶に生けようとお客様がお求めになろうとする頃には、もう咲いたか散ってしまったものが多く、そのために入荷量がぐっと減ってしまって大変弱ったことがありました」。気候の変動に翻弄される店主の愚痴を聞きつつ、それでも何種類かの花苗を買って家に戻り、プランターに植え替えて水を遣ったところでふと思い出したことがありました。「ふむ、この春の桜か……確かに」。
 ニュース番組を見ていたら、今春の桜花について妙な表現をしていました。「咲き揃わない」というのです。「咲き揃う」とは花が「いっせいに」咲く様子を表す言葉です。五分なら五分、七分なら七分、満開なら満開というように、その桜木全体が万遍なく、どこを見てもほぼ等しく開花期を迎えている状態を指しています。ところが今年は何故か「咲き揃わない」という訳です。確かに思い返してみれば、1本の桜木のなかでも上部の枝は蕾だけなのに、下部の枝はとっくに葉桜状態になっていて、特に均整がとれて美しいと言われる「七分咲き」の輝ける姿容を堪能できなかったこともありました。一体どうしたことでしょう。花屋さんの店主が嘆いていたような現象が、あちこちで、しかも形を変えて発生しているのでしょうか。桜も「調子」が乱れているようです。いやはや何とも難しい仕儀ではあります。
 それに、そもそもが「調子」という言葉の意味、いわゆる語義からして難しいものです。いくつかの国語辞典を参照してみると、大体似通った語義説明がなされています。大きく分けると4つの語義で、①音律の高低、アクセント、しらべ、リズム、②話口調、言葉や文章の言い回し、③動作や進行のはずみ、勢い、④人や物の具合、加減、様子、状態……などと分類されます。ある辞書によると「人や物が、その特徴や事情に関連して置かれている一定の状態」とも解説されており、また、①の「リズム」につながる意味で「強弱の定常的連続を伴なう事態」といった説明も目にするところです。
 「調子」という語の意味を単独で捉えようとするとなかなか難しいのですが、これに別の言葉を加えると多少はわかり易くなります。例えば、楽曲の「調子」で「曲調」(①の意味)、話し言葉の「調子」で「語調」(②の意味)、素晴らしく気持ちよく物事が進む「調子」で「快調」(③の意味)、体の「調子」で「体調」(④の意味)等々です。これらの言葉に通底する最大公約数的な意味をあえて表現するならば、「人間や物事において、変わらず一定的・連続的に発生する強弱の事態」とでもなりましょうか。以下、この意味を念頭にして続けたいと思います。
 桜も「調子」が乱れている……。桜という樹木を構成する細胞、それを構成する分子レベルで一体何が起きているのか。また、桜を取り巻く環境がどのように変化し、それが桜にどのような影響を与えているのか。この辺りについては専門の自然科学者に解明してもらうしかありません。門外漢の私個人がつらつら思い巡らすのは、「調子」が乱れたり、狂ったりするという状態そのものについてなのです。
 「調子」が乱れる、「調子」が狂う、「調子」を落とす、「調子」を崩す。これらの慣用句によって表現されるのは、これまでは当然であった流れが止まってしまったり、流れの方向が変わってしまったりする状態に他なりません。順序を追って起こるべきことが起きなくなったり、これまでならなし得たことがなし得なくなってしまう状態であるとも言えます。それはまた、当たり前のことが当たり前ではなくなってしまうこと、意識せずとも存在していたものが急に存在しなくなってしまうことでもあります。これは即ち、変化であり、喪失であり、それ故に困惑・戸惑いを、時には悲しみを惹き起こします。勿論場合によっては「解放」という意味で肯定的な効果をもたらすこともあるかもしれません。心身の「調子」、自然界の「調子」、機械の「調子」、政治経済の「調子」、人間の生活様式や考え方の「調子」、人間関係の「調子」など、ど の「調子」にも当てはまることです。
 とは言え、我々を取り巻く環境だけでなく、我々自身の日常活動においては、時々(大きいものも小さいものも含め)変化・喪失に遭遇することが不可避だとしても、他方で「調子」とかリズムとかいったものが不可欠であるということもまた事実でしょう。この「調子」は、自然界の法則、社会制度、慣習、生活常識などから得られる一定の「予測可能性」が前提とされ、夥しい数の「予測可能性」の集積の中で、人々は何となく安心して(言い方を変えれば「特に何も考えることなく」)生きていられるのです。次に起こる事態が前もって予測可能でなければ、人々は恐怖と猜疑心に苛まれ、何ものも信じられなくなって、ただの1歩とすら動き出すことはできなくなります。わかり易く言えば、手に持ったリンゴを放すと地面に向かって落ちていくのが当たり前のところ、次に手放す時には宙へと飛んで行ってしまうかもしれないとか、自動車は通常左側通行であるのに、何の予告もなく右側通行とされ、しかも違反者には極刑が科されるというルールが知らぬ間に施行されるかもしれないとかしたら、一体人々はどのように考え、どのように行動できるのかという問題です。つまり、自然界に全くの規則性が見られず、また社会のルールにしても人々の与り知らぬところで改変され、いやそれどころか、いかなるルールが定められ適用されるのかについての情報から誰もが完全に遮断されている(とすると、誰がいかなる仕方でルールを制定できるのか。「知らしむべからず由らしむべし」か)ような「(我々からすれば)異常」な状況では、恐らくのところ人間の思考や感情はわずかも持続せず、まさしく心身は「フリーズ」してしまっても致し方ないでしょう。この際、「異常」の連続とか常態化をして「ある種の『調子』あり」とする見方は、議論としては興味深いですが、ひとまず措くことにします。
 「調子」が乱れたり、「調子」が狂ったりすれば安心して生きていくことは難しくなります。ましてや「調子」そのものがなくなってしまっては何をか言わんやです。さりながら、先述の如く「調子」に変化・喪失をもたらす混乱、損壊、打撃の類もまた発生し得るということも、もう一面の事実ではあります。当然のこと、それらの混乱等は、本来あるべき「調子」に悪影響を及ぼすものをむしろ排除する性質なら格別、その埒を超えるような場合にはやはり認容されがたいものです。しかし、議論のついでながら、ここで忘れてはならないのは、「調子」とは誰にとっての「調子」なのか、という視点です。既に触れていますので、もうお気づきの方も見えるでしょう。
 自分の「調子」なのか、他人の「調子」なのか、複数人の「調子」なのか、組織の「調子」なのか、地域社会や国家の「調子」なのか、国際社会の「調子」なのか。自然界ということならば、特定の動植物の「調子」なのか、複数の動植物の「調子」なのか、生態系の「調子」なのか、惑星・地球の「調子」なのか、あるいはそれよりも広域の「調子」なのか。(これら「誰にとって」という問いに「何の」という問いを加えると、問題は一層細分化されてしまうことになるでしょう。)
 かく細分化されるとして、そもそもこれらの「調子」すべてがうまく整い、調和できるような状態があり得るのかについては正直言ってよくわかりませんが、ひとつ言及しておくべきことは、上述したそれぞれの「調子」は、相互に、かつ複雑なかたちで影響し合っているということです。シンクロしているのか衝突しているのかはともかく、「調子」の大小を問わず、いずれの「調子」ひとつとして他の「調子」から隔絶して、または超越して存在し得ません。自らの「調子」を整え、安定化させるにも、無数の「調子」に翻弄されるうちにおいてしか達成し得ず、己の内側だけを凝視して完結できるほど簡単な話ではないのです。
 こうして考えてみると、「調子」という言葉ひとつにも、表面的な語義からは簡単に想像できないような実に難しい問題が含まれていることが分かります。言葉の意味を深堀りして初めてわかる事柄です。言葉の抱える背景に、改めて驚嘆し、同時に嘆息するのみですが、ここまで記してきたことの大半は、妄想めいた「思考実験もどき」であったにせよ、万物流転の様相を呈する現実のうちに「調子」の姿形を、朧気にも認めることができた気がします。
 その上で、そこここに確認される「調子」全体を俯瞰し得るだけの「ゆとりある」健全なものの見方ができるようになるためには、先ずは自身の「調子」を整えておかなくてはならないということが、沈潜長考の末にぐるっと回って戻ってきたところで得られた結論、着地点であった訳です。複雑の闇を抜けると単純の光明に至る、とでも表現できましょうか。
プランターに植えた花苗は順調に成長しています。毎朝の水遣りもひとつの楽しみになっていますが、花と向き合う時には、私の「調子」と花の「調子」とが呼応し合っているような感覚を覚えます。「調子」よくいけば、もっと沢山の花を咲かせてくれることでしょう。
 さて、間もなく今期第71期が終わります。皆さんそれぞれがこの1期を省みて、どのような思い、印象を抱いているでしょうか。全力で仕事に取り組み、お客様にご満足いただいて、所期の目的・水準・出来高・利益確保を達成できたでしょうか。様々な人々とのつながりを強化・拡大し、自身と会社の信用・信頼を向上させることができたでしょうか。またあるいは、精一杯に力の限りを尽くしても、事態はなかなか思うようには展開せず、次々に発生する困難に直面して、その解決に苦しみ、悩むことの連続だったでしょうか。「3歩進んで2歩さがる」という歌詞と同じ心境だったでしょうか。しかし、いずれにあっても、万事明日への糧として活きてくるものでしょうし、また、そうでなくてはなりません。
 社会も産業界も「調子」は悪化していく傾向にあります。本「調子」となるには、一定の時間と更なる努力が必要となるでしょう。勿論、手軽な特効薬なんぞ存在しません。石にかじりついてでも1歩を進めようという決意と気概を胸にして来期に臨むのみです。
 先ずは今期1年間ご苦労さまでした。来期においても、ひとりひとりの力を結集し、その総合力で事に当たっていきます。どうぞよろしくお願いします。ご安全に。

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