IWABEメッセージ
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第108回「些事から大事を見る」
今回も生煮えで雑駁な話に終始しますことをお許し願います。
さてさて、今日の昼食はコンビニのおにぎりにしよう……と決めて近所の店へと向かいます。店内の陳列棚を眺め、その時の気分に合ったおにぎりを2つほど選んでからレジの方を見ると、特に先客は並んでいないようです。これ幸いと少し足早にレジへ行き、おにぎり2つを差し出して財布の中身を確認し始めます。そこで少し顔を上げて目に入ってきたのは、まだ若いレジ担当者でした。恐らく高校生か大学に入ったばかりぐらいの年恰好の青年でした。そのアルバイト青年は、「いらっしゃいませ」との挨拶に続き、「レジ袋はどうされますか?」「おしぼりはお使いになりますか?」などと問いかけを続けるのですが、そのものの尋ね方、声量、言葉の明瞭さ、相手をしっかりと見て話す姿勢、商品の扱い方、レジの打ち方、現金の取り扱い方などがとてもしっかりとしていました。とにかく一連のレジ対応すべてがテキパキしており、卒が無く、その鮮やかな働きぶりに爽快感すら覚えました。久々に感心したのです。なるほど確かに業務上の手順などはコンビニでマニュアルが定められており、青年はただそれに則っただけなのかもしれません。そうであったとしても、私が感心したという事実は残る訳で、いかにマニュアルがあろうとも、それを忠実に実行するのは容易なことではありませんし、また、それだけでは人を感心させるには不十分でしょう。それに少なくとも私は、青年の挙措動作に「マニュアル感」を抱くことはなく、それどころか青年の振る舞いはごく自然で、誠実なものであったと思えたのでした。かく爽やかに、端然と仕事するさまは、客だけでなく職場を同じくする人にもある種の安心感を与えてくれます。この安心感は店の好評へとつながり、リピーターを生むことでしょう。レジでのお会計の最中、ほんの短い時間ながら、あれやこれやと思索を巡らせていました。お勘定を終えて店を出る時には、何とも気分よくなり、食したおにぎりの味も、何となくいつもと違っているような気すらしました。どうにもそれは「気のせいだ」と一笑に付されそうですけれども、確かにそういう気がしたのですから如何とも仕様がありません。
レジでの出来事と言えば、別にこういう話もあります。先日のこと、関西にある神社へ参拝に出掛けました。名神高速道路を利用し、丁度お昼時になったので、途中にあるサービスエリアで休憩を取ることにしました。施設内のレストランは少し混雑し始めていましたが、店員さんの対応は存外早いものでした。お水やおしぼりと一緒に持ってこられたメニューのページを繰りながら、悩んだ挙げ句に注文したざる蕎麦は、それなりの味、それなりの量、それなりのお値段でした。それなりに満足して食事を終えれば、待っているのがお勘定です。お会計票を持ってレジへ行くと、既にひとりの男性が精算中でした。こちらのレジ担当者は、多分アルバイトの若い女性でした。先の男性とのやり取りを見ていると、レジを任されている以上全くの新人さんではないのでしょうが、どうもスムースに会計処理が進んでいないようです。その男性も男性で、スマホを使ってキャッシュレス決済ということなのでしょうけれども、何やら決済用の画面表示ができないらしく、また読み取り機のどこにかざしてよいのかもわからないようで、妙に手間取っています。まあ私は急いでいる訳でもなかったので、のんびりと成り行きを見守っていたところ、やっとのこと精算は終わり、いよいよ次は私の番となります。少しばかり焦り気味のレジ担当者は、お会計票を受け取り、金額の入力を始めました。「〇〇〇〇円です」。その金額を聞いた私は「うん?そんなにするはずはないぞ」と思ってその旨伝えたところ、レジ担当者は戸惑いながらレシートを確認しています。どうやら先ほどの男性が払った金額に私の払うべき金額を足し込んで計上してしまったようなのです。原因がわかっても、一度入力した金額をどのように訂正してよいのか、その方法手順がわからず、先輩店員に救援要請となりました。その先輩店員がまた情け容赦ない質問やら指摘やらを連発し、レジ担当者を硬直させてしまいました。結局、小さな電卓が登場し、私は本来の金額を現金で支払って店を後にしました。上述のとおり、私は時間に余裕があったので、目の前で展開されるドタバタ劇を悠長に眺めていただけのことでした。ですから、腹が立つどころか、あの後レジの担当者は先輩店員に相当こっぴどく叱られているのではないかと心配になったぐらいでした。それに、あの時私の後ろには既に数人の客がイライラした表情で並んでいたのです。レジ担当者が半分パニックになったとしても不思議ではありません。そこまで心配できるほど、私の心にはある種の余裕があったのでしょう。
振り返ってみれば、コンビニのレジでの出来事、サービスエリアのレジでの出来事、いずれにおいても、私自身は落ち着いて事態を見守り、評価できていたのだと思います。優秀な店員であれ、不慣れな店員であれ、一生懸命に働く姿を見つめ、心の内ながら時に賞賛し、時に声援を送ってもいたのです。しかし、そうしていたのも、ほんの偶然の結果だったのかもしれません。もうおわかりのように、その時は偶然のこと私は特に急いではいませんでした。特に深く重い考え事をしている訳でもありませんでした。ゆったり構えて事態を観察し、それを素直に受け止め、どのような推移を辿ろうとも一応受け入れることができました。もっと言えば、意識せずとも相手の目線に合わせて考えることができ、同情したり理解したりすることのハードルは高くはありませんでした。終始穏やかな思考や言動に徹することができる状態、まるで「凪の海」を漂う小舟でうたた寝しているような心境にあったのです。要は「心にゆとりがあった」ということ、ただそれだけの故に穏やかにいられたにすぎないのです。多分こうした状態にあれば、他者の悩み事や相談事に客観的かつ的を射た助言が出来たりもするでしょう。(その一方、いつにあっても自分のこととなると道に迷い途方に暮れてしまいがちで、「自分のことは自分が一番わかっている」などとうそぶきながらも、自分の姿は鏡面を通した仮の姿でしか見ることができないのと同じように、実は自分で自分の真の核心に辿り着くことは至難なのです。)
それでは逆に、私の心にゆとりがなかったとしたらどうなっていたでしょうか。勿論、自分以外の他者が心にゆとりがある場合と心にゆとりがない場合とでは当然また自分のとる行動も変わってくるに違いありません。そこで、ここからは便宜的に①自己も他者も心にゆとりがある場合、②自己の心にゆとりがあり、他者にはない場合、③自己の心にゆとりはないが、他者にはある場合、④自他共に心にゆとりがない場合、と大雑把に4パターンのケースを定めて話を進めることにします。それで、①のケースにおいては、自己と他者の間に平穏良好な関係が築かれ、お互い善きことは善きこととして喜び合い、悪しきことは寛容の心をもって受け容れることでしょう。②のケースでは、他者の無礼や感情の乱れなどといった悪しきことが発現してしまったとしても、一応のところそれを受忍、あるいは吸収し、他者とは距離のある少し高いところから事態を見守ることができるでしょう。③の場合は、他者の善きことを素直に喜べず、苛立ちや嫉妬が先行し、他者そのものに反発を抱いてしまうでしょう。④ともなれば、自己と他者との間には険悪で一触即発の危機的状況が横たわり、時には大きな衝突を招くことになるでしょう。……以上、何か「おみくじ」の文言めいたことを書き連ねましたけれども、この4パターンで考えれば、さしずめ上述のコンビニの例は①、サービスエリアの例は②に分類されることになりましょうか。
日常生活を振り返ってみるに、①のケースは極めて稀で、残念ながら奇跡的な確率でしか見られないようです。②と③のケースは往々にしてあることでしょう。④のケースは、昨今の各種報道を待つまでもなく、特に最近増加傾向にあるように思われてなりません。ここでもう少し考えてみるべきは、①から④のいずれにおいても、主体が自己であれ他者であれ、いかなる心持ちで、いかなる言動・対応をとるのかについては、強制や義務の対象ではないということです。即ち任意です。個々人の意思決定は、心身の状態、家計の具合、人間関係、仕事関係、自然環境等々様々な要因によって左右されるも、その内容についてはあくまで任意だというのです。そのような中にあって、しかも心にゆとりが求められるところで、①のケースが出来するのはなかなか困難であるに違いありません。①とは言わず、相手に対して思いやりと寄り添いの気持ちを持って優しく接するということは、それが善きことであると措定されたとしても、少々企んでできることではないでしょうし、敢えてそう心掛けて自らを仕向けようとしたところで、もしかしたらそれは、果てなき試みを続け、上首尾に終わるという夢を見続けているだけなのかもしれません。言い方を換えれば、混沌とした末法濁世に迷う衆生が抱く儚い「待ち望み」、あるいは「祈り」ということでしょうか。いやいや、それどころか、あれやこれやと思いは揺らぎながらも、その実、能動的に行動選択する訳でもなく、結果として善き事態も悪しき事態も受け容れ、その事態の因果には無関心を決め込んだ上で、何事も人生の刹那に吹いた「そよ風」程度に受け流してしまっているというのが人々の本当の在りさまなのでしょうか。「そよ風」ならば、その印象も一瞬で消えてしまうのですから、万事即座に忘却、リセットされてしまうことになりましょうし、①から④の人間模様に煩悶懊悩、一喜一憂を何度繰り返そうとも、いつにあっても性懲りもなく「成り行き任せ」、「在るがまま」を受け容れて忍ぶだけだというのが人間の本性だとすれば、日常生活の起伏なんぞ有って無きが如しなのでしょう。何とも虚しい話になってしまいました。
しかしどうであれ、ひとつ確実に言えることは、あの時のコンビニにおいて、誠に小さな、それでも正真正銘の、ほのぼのとした「幸せ」の原型を感じ、それが心の中に広がったような気がしたということなのです。何となく弱々しくもじんわりと染み入るような感覚です。同時に、そこには「温かさ」、つまりある種の温度のような性質が伴なうものなのだと驚きをもって再認識しました。
理屈を超えたところに得られる感覚。もしかしたら本物はそれだけなのかもしれません。
さて、今月末にて第73期は終了します。何より皆さんには、この1期ご苦労さまでしたと申し上げます。いつものことながら、平穏無事で順風満帆な日が続くことなんぞ現実にはありません。次から次へと日替わりメニューならぬ秒替わりメニューで新しい難題が生じ、それにひとつひとつ丁寧に対処していかなければならない労苦は、たとえ仕事上のこととはいえ、相当に大変なものです。ましてや、来期はさらに厳しさを増すともなれば、今以上に気を引き締めて日々の仕事に取り組んでいかなければなりません。
その仕事。仕事である以上、先ずはこちら側から一定の「善き」姿勢を示さなければならず、そのためには、常日頃から一呼吸のゆとりと相互配慮が不可欠となります。自他双方への思いやり、労りの心を大切にして、また1年職務に邁進していきましょう。
暑中にあっては、ご自愛専一にて。来期もよろしくお願いします。ご安全に。