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第70回「続・ある対話」

 ご存知AとBは、生業を異にこそすれ、学校に通っている頃からの友人です。今回彼らは、ある二人の画家を巡って対話を繰り広げます。
A 「このあいだ君は、絵を観に渥美半島の田原まで行ったんだって?」
B 「そうなんだ。田原市博物館で開催されていた『科学から芸術へ 日本ボタニカルアートの巨星 太田洋愛展』を観てきたんだ。」
A 「オオタヨウアイと言えば、有名な植物画家だな。確か田原の出身だったよね。」
B 「明治43年に田原で生まれて、昭和63年に東京の国立で亡くなった。77歳だった。旧制の成章中学校、今の県立成章高等学校の卒業生なんだ。この学校の歴史は古くてね、江戸期の田原藩の藩校・成章館を前身とするんだ。博物館の近くに校舎は建っている。」
A 「田原藩1万2千石か。博物館は、三宅氏の居城・田原城の跡にあったな。昔に行った覚えがあるんだ。櫓とかが復元されていたし、巴江神社が城址内にあったね。それで、肝心の展覧会はどうだったんだい?」
B 「勿論よかったよ。特に桜の絵が素晴らしかった。洋愛は『日本桜集』という画集を出しているぐらいで、展示室いっぱいに掲げ並べられた全国の桜の絵を目にすると、彼の桜への愛情がひしひしと伝わってきたよ。何と言うか日本の人々への温かい眼差しも感じられたな。図鑑に見られるような、徹底的な写実画なんだね。白のバックに植物以外の余計なものは一切描かれていない。葉の1枚1枚、葉脈の1本1本に至るまで克明に描出され、その鮮やかな彩色は植物の生命力を表現している。自然のうちに陽光を浴びて、活き活きと育ち、開花を迎えたという様が、驚くべき集中力と筆力と美的感性によって捉えられているんだ。どうやら技術力というよりも、彼の人柄が滲み出ているような気もしてきたんだ。」
A 「彼の人柄というと?」
B 「一口で言うと優しさだね。自然界への優しさ、人間への優しさ、はかなく弱いものへの優しさ。そういう優しさを持った、強い信念の人だったんだろうね。図録には彼の次男・修平氏の一文が載っていて、それによると洋愛は『ひとたらし』であり、相手がどんなお大尽であれ、一介の市井の人であれ、決して分け隔てしなかったと言うんだ。でも、上から目線の権威とか、札束で頬をはたくような輩には断固厳しい態度で臨み、全く相手にしなかったらしい。この頑固さは、弱者や庶民への愛情の裏返しだったんだろうね。それだけに彼の絵を観ていると感動も増してくるんだ。」
A 「恐らく太田洋愛という画家も相当の苦労人だったんだろうな。」
B 「彼の家は田原藩士で、近所にはかの渡辺崋山(わたなべかざん)の屋敷もあったようだ。だから代々色々と交流もあったろうし、崋山の書画に触れる機会もあったろうから、絵を描くことに興味関心が湧いたとしても不思議じゃない。しかしとても貧しかったので、芸大へは行かせてもらえなかった。それでも新天地を求めて満州へ渡った時に、植物学者の大賀一郎や牧野富太郎に出会えたのが人生の幸運だったんだろうね。そこで植物画を描く技法の指導を受けることができたんだ。」
A 「太田洋愛というボタニカルアートの大画家が、武士であり画家でもある偉人・渡辺崋山とつながっていたというのも興味深いね。時代こそ違え、同じ田原という地に二人の偉大な芸術家が存在した訳だ。」
B 「その点は僕も大いに感じたところでね。だが、渡辺崋山という武士については君の方が詳しいだろう。崋山も田原生まれということになるのかな。」
A 「いや、崋山は江戸の田原藩上屋敷で生まれている。寛政5年(1793年)のことだ。」
B 「寛政5年というと、老中・松平定信が寛政の改革を始めた頃だね。テレビ時代劇『大江戸捜査網』の時代だ。」
A 「隠密同心か。いや、現実の話に戻すと、田原藩というのは財政状況がとても厳しかったんだ。当然渡辺家も貧しい生活を強いられていたんだな。それでも崋山は責任感と向学心が人一倍強く、のちに藩の家老に取り立てられた。彼は直ちに様々な藩政改革に着手するんだが、中でも将来の飢饉の発生を予見して、困窮者用の食糧を備蓄する『報民倉』を設置したことは有名だよね。それが実際に大変役立って多くの民を救ったので、田原藩は幕府から表彰されたぐらいだ。」
B 「才能を遺憾なく発揮して評価される。万々歳、順風満帆のようだけれども……。」
A 「ところが日本の周囲が騒がしくなってくる訳だ。諸外国の船が日本に接近してきたり、そこで衝突が発生したりするんだ。当時の日本は鎖国中だし、外国船を発見したら躊躇なく追い払えという『異国船無二念打払令』が出されていたぐらいでね。君、『モリソン号』って知ってるかい?」
B 「『モリソン号』って音吉が乗っていた船だろう?知多半島の小野浦から江戸へ向った商船・宝順丸が遠州灘で遭難して太平洋を漂流することになった。途中大半の乗組員は死亡したが、岩吉・久吉・音吉の『三吉』だけは生き残ってアメリカ大陸に漂着した。そこでインディアンの奴隷になっているところをイギリス船に助けられ、日本人としてロンドン初上陸。のちマカオに送られて、薩摩からの漂流民と合流、アメリカ商船『モリソン号』に乗って一路日本に向かうんだが三浦半島沖で砲撃されて追い返され、次いで薩摩からも追い払われたため、故国の土は踏めずにマカオへ引き返した、という話。三浦綾子の小説『海嶺』にその悲劇が描写されているよ。『三吉』は世界で初めて『聖書』を邦訳したことでも知られている。西洋文化の知識なく禁教の書を翻訳する難しさは計り知れないな。」
A 「うん、その『モリソン号』だ。軍事的侵攻ではなく、本当は通商とかが目的だったんだろうけど、当時の幕府はピリピリしていたからね、追い払ってしまえ、だ。崋山は儒学のみならず蘭学にも明るく、考え方が開明的だったし、諸外国の状況についても詳しかったんで、『モリソン号事件』の時のような鎖国一辺倒のやり方がいずれ国難を招くに違いないと危機感を募らせたんだ。彼は、『西洋事情書(初稿・再稿)』、『外国事情書』、『鴃舌小記(げきぜつしょうき)』、『慎機論』等を著して、本当の世界情勢、本当の国力、それと日本外交のあり方を説いてしまったために幕府の逆鱗に触れてしまったんだな。彼の言い方も激しいんだよ。今のようなやり方をしていたら、『井の中の蛙と同じだ』、『蟹が眼を空に向けて手元・足元に注意を払わないようなものだ』、『目の不自由な人が蛇を恐れず、耳の不自由な人が雷を避けないのと違わない』、といった具合だ。周囲四方に注意関心を払い、徹底して情報収集と分析に努め、我が国に接近しつつある脅威を敏感に感じ取って対処するのが急務なのだと主張したんだが、残念ながら幕府には通じなかった。むしろ『蛮社の獄』という弾圧を受け、崋山や高野長英らは捕まり、罰せられた。崋山は田原へ送られて蟄居となったが、結局自刃してしまったんだ。開国・維新への胎動期の出来事だった。」
B 「その崋山も優れた画家だったんだよね。」
A 「彼は谷文晁(たにぶんちょう)始め多くの画家から教えを受けた。国宝の『鷹見泉石像』は有名だよね。顔は西洋絵画風の陰影で表現し、衣服は日本絵画特有の技法で流れるように線描されている。西洋と東洋の両方の技法を駆使した写実画だ。」
B 「すると崋山も写実主義だったのかい?」
A 「と言っても、ただ見たまま描くというのでは足りないんだな。筆・墨・色の協働による活写と、俗悪・卑俗から離れた趣きがなければならない。彼は『気韻』と『風趣』と言っている。技巧には人格とか思想の背景が必要なんだろうな。ここら辺は、吉川弘文館から出ている佐藤昌介著『渡辺崋山』に詳しく解説されているよ。」
B 「崋山にしても洋愛にしても、写実には魂が宿っている気がする。写実する心は、まさしく真実を見る心と重なるんだ。事象の深奥に潜む、姿なき形を把握し、声なき声を聞き切る心、心構えがないと写実は完成しないと思う。」
A 「しかし、そんな心境になるためには、無数の対象に触れ、言葉や線や色彩を駆使して何度でも表現し続けて、技法や技術を高めていくことによるしかないとも言える。」
B 「確かに。そういう過程を経て形式と実質がひとつになり、不可分一体的に写実に魂が宿ることになるんだろうね。色や音などを識別する能力も常人の比ではなくなっているはずだ。恐らく崋山も洋愛もその域に達していたんだ。」
A 「人間の生きざま、一本筋の通った姿勢、妥協を許さない信念、譲れないプライド、もっと言えば人生哲学が絵画の内奥に厳然としてあるんだろう。またそれをもって社会を見つめていたに違いない。近世と現代の二人の人物が、絵画と風土によってつながっているということに改めて感慨を覚えるな。」
B 「渥美半島から眺望する太平洋とその無限の拡がり。心地よく、時に厳しく吹く潮風。不規則に相貌を変化させる波浪。足にしっかりと接する浜砂。これらを体感した時、彼らは何を考えていたんだろう。世界を臨み、一木一草に心を寄せる。そんな彼らの心と体から生まれたのが、精緻細妙、実物以上の写実画だったんじゃないかな。天空、大海、大地、それに自己というものを省察した二人。強烈な個性と情熱、圧倒的な知見と技量が生み出す美の結晶。心の内なる理知と情緒の融合と言っても大袈裟ではないだろう。」
A 「そこまでいくと絵画鑑賞というより人間観照に近いな。美を通して『人間模様』に触れるというか……。」
B 「僕はね、作品の前に立ち尽くして凝視したんだ。忘我の瞬間すらあった気がする。本当に久々に充実感や満足感が得られたし、色々な『気付き』も得られたと思っているよ。」
A 「君の言うような体験ができたとすれば素晴らしいことだな。そんな体験を日常生活や仕事の上でもしてみたいものだね。」
B 「そうだね。ただ仕事を仕上げるというのも並大抵ではないけれども、そこにしっかりとした考え方とか信念とか……やはり魂を込めなければね。プロフェッショナルとしてのプライドに懸けてね。」
A 「やるべきこと、踏まえるべきことが欠けていたり、自分の考えというものが込められていなければ、まさに『仏作って魂入れず』になってしまうだろうからね。いや、今回も面白い話ができたよ。ありがとう、ご安全に。」
B 「こちらこそありがとう。ご安全に。」

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